あなたの伊豆の「山への思い、海への思い」



(海の部)

玄関を出て少し歩くと漁船が並ぶ海があった。
漁から戻ってくる船が見え始めたら無事帰ってきた家族を迎えに海へ行った。
夜の海辺を散歩するのが好きだった。
海を眺めながら過ぎていく時間が大好きだった。
雨の日でも窓から海を眺めていた。
考えてみれば、海はいつも生活のそばにあった。

嬉しいときも、寂しい時も、辛い時も、悲しい時も
伊豆の海とそこで過ごした日々のことを思い出す
海の見えない都会で過ごす毎日の中に伊豆の海を感じられるから。

観光が盛んな伊豆地域、このコロナ禍で、厳しく辛い状況ではないかと想像しますが、きっと大丈夫。
皆様なら伊豆の海のように穏やかに、そして時には荒々しく本気を出し、
この困難な状況を乗り切ることができると信じています。


匿名希望



「伊豆下田」と聞いて、この場所をすぐに思い浮かべる人が日本中にどれくらいいるだろう。
私は、生まれも育ちも伊豆の白浜っ子。
母親は80才まで海女さんでした。
海女の娘が泳げないのは信じがたい話でもあるが、私はカナヅチです。
カナヅチの私が、海への思いを語るのもおかしな話ですが、伊豆の海は宝の宝庫です。
一般的に高価と思われる、アワビ、サザエ、トコブシ、シッタカなどの貝類や、
魚では、金目鯛、イサキ、ムツ、イカ、タコ、漁の解禁になれば伊勢海老も採れる。冬には、岩のりなども採れる。

四季折々に食卓を和ませてくれる海の幸たち…。
海にも春夏秋冬の顔があり、私は冬から春にかけてのグラデーションを見せてくれる海が好きです。
澄み渡った色から段々に濃い青色に変わって行く姿は、何とも言えない気持ちになります。
自然いっぱいの伊豆の海を多くの人に知ってもらいたいです。


下田市在住 KMさん



「伊豆の海への思い」

伊豆に移住し、3年の月日が経ちました。
街を知り、土地や海に触れ、改めて、この伊豆の持つ人を引きつける魅力を感じています。
特にその“魅力を感じる場所は、透き通る海だと思います。
私は趣味でサーフィンをしていますが、波待ちをしている足元では、エイや魚達が、その表情が分かるほど澄んでいます。
沖に行けばウミ亀に出会う事もあり、有名なハワイを思わせる、そんな豊かさを味わうことができます。
週末転勤族で他県を点々としていましたが、これほどのクオリティーを保っている海は、残念ながら数えるほどしか残っていないと記憶しています。

私は海を見れば、その海を形成する丘の情報が得られると思っています。
街の開発が著しく進んだ場所や、大きな川のある土地が隣接する海は、水は澱み、海とは思えない匂いを発するところもあります。
そんな海に入れば、髪についた匂いは自宅に帰り洗ってもとれない時がありました。

逆に、人の手があまり入らず、流れ込む川も無いに等しい状況であれば、海は本来の持つ自助が働き、
太陽が当たると海底の地形が鮮明に見てとれる澄んだ水を維持します。
岩がサンゴに見えるほど、その造形美を楽しむことができるのが、後者で述べた状態である伊豆であり、
どのポイントでサーフィンを行っても、そうした海を堪能することができるという点においては、
希少価値の非常に高い場所の一つであるということはいうまでもありません。

また土地に関しても同じ事が言えます。
一年を通し温暖な気候である伊豆は、たくさんの農作物を育み、内陸では味わえない珍しいものに出会うこともあります。
私が出会った作物では、カキナがあります。
カキナは首都圏や内陸では見かけた事もありませんでしたが、寒い時期になると、ここ下田では豊富に見かけます。
甘味と苦味の調和のとれた葉物で、これを知ってから、冬は白菜よりもカキナを好んで購入するようになりました。

また、スーパーなどで購入すると驚くほど高かったアシタバも、購入した自宅に自生しているのを見て色々な意味で感動しました。
景観といった点においても、観光名所でなくても、高台から沿岸を望めば海底火山や単成火山によって形成された地形を見てとることができ、
その造形美を楽しむことができます。

今はこの自然の雄大さと優雅さを毎日感じながら過ごせる時間を本当に有難い事だと思い過ごしています。
ただ、この街の産業資源がこの豊かな自然であり、産業を活性化させると、悲しいかな、その資源はどんどん破壊されていきます。
近年、SDGSの採択より再クローズアップされた地球の気候変動や、環境問題。
周知されているように、一度破壊された自然環境は本来の姿に戻るまで途方もなく長い時間を要します。
しかし、知ってか知らずか、観光名所への道中には、自然には還らない人工物が散見されます。
これらを分解しようと自然も頑張りますが、莫大な環境エネルギーを消費するだけで、ほぼ未分解のままそこにとどまります。

私はこれらを拾うたびに、山や海から悲鳴に近い叫びが聞こえる気がします。
ここから立ち去れ、ここを汚すなと。
冒頭でも述べましたが、伊豆の持つ自然の力は他に類を見ないほど豊かで、貴重であることは、囲まれている海を見れば明白です。
そこに私たちは住まわせてもらっているのであり、壊す行為など言語道断だと思っています。
現在進行形で環境破壊が進んでいる場所があれば、私達住む人はそれをくい止めなければなりません。
後世にこの透き通った海と白い浜を残すことの本当の意味を知っているのであれば。



匿名希望



「海への思い」

吉佐美海岸への細い道の終点…吉差美大浜。

私の中学・高校(定時制)での遠足の定番でした。
現在の野球グラウンドのレフト側からでも海が眺められました。
本当に広い砂浜で、野球をしたりしてボールを追い、走り回ったもので、
海辺までたどり着くのに時間がかかり、砂に足を取られてフーフー言いました。
それが、高校卒業してから数年後に田牛までの海岸線に道路が建設されて、
さらに大浜には防潮堤まで作られて海が見えなくなりました。
大浜のとなりの安庄浜には天然の松の巨木が何本もあり、まさに白砂青松の
素晴らしい景観でしたが、道路建設のため伐採されてしまいました。
その隣の碁石ヶ浜までは安庄浜から少し泳ぐと見事な海食洞窟があり、
そのひんやりした空気のなかを潜ると狭い砂浜、
そこから又少し泳ぐと碁石ヶ浜にたどり着く。
そこは別天地で絶海の孤島にいる感じを独り占めできる場所でした。
今は、浜の上を道路が走り、別荘地の生活廃水が流れる浜になりました。
便利さを求める事は仕方ないかも知れませんが、何千年も受け継がれたこの海岸の景色が一瞬にして破壊されてしまう…
一度失った自然は元に戻せません。

伊豆の特徴ある自然・景色は宝物、将来の子供達にいつまでも変わらない、この大切な財産を残すのが、
現在に生きる私達の使命だと強く感じます。



下田市在住 HKさん



「伊豆の海への思い」

海辺で育ち、毎晩波の音を聞きながら過ごしていました。

小さな頃は、家族総出で、休みの日には海へ見取り魚釣り、
又は山を登り、下田湾を見渡せる畑へお弁当を持って…自然の中で食べるおにぎりは格別に美味しいものでした。
還暦を過ぎた今では、昔とは違った風景になってしまったけれど、
雲の隙間から射し込む太陽の光がふりそそぐ海、
夕陽に染まる海、伊豆の海はいつも美しい。
私の人生、伊豆の海と共に。
そして、これからも…。


匿名希望



「ジャック・マイヨールと伊豆」

2021121日に私は、青山で開催中の、「向田邦子 没後40年特別イベント『いま、風が吹いている』」を観に行った。
緊急事態宣言中で外出は控えていたが、ラジオでそのことを知ったら、行動せずにはいられなかった。

展示してある服などを見ると、とてもおしゃれな人だったようだ。
レストランで『ままやセット』(末妹・向田和子がはじめた赤坂の小料理屋「ままや」の看板メニューだった「ひと口カレー」
「人参のピリ煮」「さつまいものレモン煮」を料理家の冷水希三子が再解釈して蘇らせ、特別メニューとして提供いたします。)
を食べたかったが、1日限定30食は残念ながらもう無く、代わりに「エゾ鹿のボロネーゼ」を食べた。

以前からジビエ料理にはとても興味があった。それを食べながら頭に浮かんだのは、
下田で生活している時家の中で聞いた、鹿の鳴き声のこと…

『向田邦子賞』(優れたテレビドラマの脚本家に与えられる賞)の年表で、
2002年の受賞が倉本聰氏の「北の国から『遺言』」であることを知った。
下田に移住した年、「北の国から」が終わってしまうことが残念でたまらなかった印象は、とても深く記憶に残っていた。

海の蒼さに魅かれて下田に移住したと言っても過言ではない。
子育ての大半を下田で終えた。移住してからもう20年の月日が流れていることを、コロナ禍の東京で知り回想が始まった。

200411日移住してから初めて仙台へ帰省する伊豆急行の中で、私が雑記帳に書いていたこと。
《「空気も水も確実に汚染されている。テクノロジーの進歩によって。人はこれを勝利というが実は敗北なのだ。
私はいつも語り合う。海がこの事を許してくれたらと」ジャック・マイヨール 
今年は自分の思い描くライフスタイルに近づけるように何かをしたいと思った。
多分それは、このきれいな海を守りたい。環境破壊をくい止めたい。子供たちのために豊かな自然をのこしたい。》

そんな思いで下田での生活をスタートした。きれいな海が生活圏にあることに豊かさを感じていた。
ジャック・マイヨールがモデルの映画『グランブルー』は大好きな映画の一つ。
ジャック・マイヨールは1966年、39歳のとき、水深60メートルのフリーダイビング(素潜り)に成功。
以後、閉塞潜水の第一人者的存在になる。

移住してから約10年後、201310月の伊豆新聞の記事「フリーダイブの第一人者下田に」で
ダイビングスクール「ビックブルー」の代表・松本恵氏の下田移住を知り、私の目は釘づけになった。

松本恵氏はジャック・マイヨールの最後の愛弟子だった人。
松本恵さんと知り合うために無謀にも「フリーダイビング インドアカップ2014イン下田~下田開港160周年記念大会」に
私は地元枠で出場することにした。
松本恵氏の大会に懸ける思い「下田は海、山、川、滝などの大自然に囲まれ、温暖な気候と美味しい海、山の幸、温泉にも恵まれた場所です。
また、昔から開国の地とされ、黒船ペリー来航など歴史上でも重要な役割を果たした土地でもあり、街並みにも多くの歴史が刻まれ、
年間を通して関東近県の方々が数多く訪れる人気の高い観光地でもあります。
この大会開催により、選手、スタッフ関係者など、多くの方々が下田を訪れ、その歴史に触れ、新たな下田を知り、
地元の方々との交流を深めていただけたら幸いです。またそのことがさらに下田を元気にするキッカケになれば大変嬉しいです」を読み、
同じ移住者として力になりたいと思った。

実際お会いするととても素敵な方で、「人間が一番悪い。人間がいなければ、地球環境破壊はない」
松本さんが直に聞いたジャック・マイヨールの言葉に感動した。
地元枠で出場し、私は「ルーキー賞」と「記録賞」2枚の賞状をいただき、この事は「感動エピソード」に投稿した。


201911月、映画「『ドルフィンマン』ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ」を私は渋谷のこぢんまりとした映画館で見た。
その前に、久し振りに松本恵氏にメールをし、ジャック・マイヨールが修行をした伊豆のお寺が何処か知っているか聞いてみた。
すると「ご無沙汰しています。お元気そうで、何よりです。私は東京での仕事が忙しく、なかなか下田に帰れていないです。
ジャックが修行したお寺は、八幡野の国道から少し山側を上がったところにありました。正式名はわすれてしまいましたが。」と返信があり、
まだ下田に家があることを知り嬉しかった。

映画を観てお寺の名前が「大江院」だと知った。
パンフレットに住職・浅香一誠氏のコメントがあった。「ジャックさんがより深く潜るために禅で得たことは、心に留め置かない。
考えた事をすべて流していく。暗闇の中にすき込まれていく恐怖を、それすらも留め置かずに流していける。
そんな心境をつくれたのかなとおもいます」

ジャック・マイヨールの言葉もあった。
「私が禅を学んだ日本の伊豆のお寺では、非常に大切なことを教わった。寺で修行を始めた頃、私は雑念だらけだった。
住職は“無心であれ、考えるな”と。私の煩悩を断ち切るようにピシリと肩を叩いた。
このメッセージは、よけいな言葉などなく、直接的で、しかも完全なものだった」

ジャック・マイヨールは1970年に伊豆の富戸で当時の世界記録を2メートル程更新し、見事76メートルの世界記録を打ち立てた。
ジャック・マイヨールに関する本を改めて読もうと思い、私が持っていた本を集めた。
『クジラが見る夢』池澤夏樹。表紙はシンプルなデザインだが、中にはカラー写真が沢山あり、海の蒼さに癒される本。
池澤夏樹氏は私が好きな作家の一人で、ジャック・マイヨールと親交があったことはとても嬉しい。
ジャック・マイヨールが作ってくれたスパゲティを食べた話、羨ましいと思った。

『ジャック・マイヨールの遺産』竹谷和之編著をパラパラめくっていて
「私はマイヨールさんの嫌っているインターネットの……」の記述に眼が止まった。

また、「いま社会が抱えているさまざまな問題は、すぐ解決するわけではない。おそらくは途方もない時間と困難を覚悟しなければなるまい。
しかし、ジャック・マイヨールの遺してくれたことばを抱きしめ忘れぬかぎり、少しは明るい未来が期待できるのではないだろうか。
その遺言とは、『人間は想像力を持つ唯一の動物である。』ということである。」

この本が発行されたのは2007年だ…とても考えさせられる。


東京都世田谷区在住  S・Rさん





(山の部)

「寝姿山って、人が寝てる姿に見えないよね。」
私の母親は、幼少の頃から毎日のように眺めてきたであろう下田屈指の観光名所に、そんな無味乾燥な感想を持っていました。
一方で、下田で暮らしていた時期が短い私は多少なりとも寝姿山に特別な印象を抱いていたかというと、
実はそうでもなく、「全然人が横たわっているようには見えない」と言うのが正直なところです。

むしろもっと「寝姿」という称号が似つかわしい山は日本中に遍く存在するのではないでしょうか。
しかし最近、そんな勘案などもろともせず堂々と「寝姿」の名前を冠しているこの山が、私の中で愛着を生み始めています。
日に日に姿を変えるビル群、忙しなく変化するターミナル、東京のどこを見ても、
一年後に今と全く同じ風景を固持し続ける場所はほとんど無いように思われます。

ひょっとすると私自身も例外ではないかもしれない。
だからこそ、冬には満開の寒桜を湛え、夏になれば一面の新緑で生命力を誇示し、秋の紅葉で人を労ったあとは潔く葉を落とす、
何年も何十年も変わらない故郷の山が大好きです。

そして臆せず「寝姿」を名乗るこの山から、都会の世俗的なものとは異なる自信を分けてもらいたい。
東京で暮らすようになってからふと、変わらない故郷の山のことが思案に浮かびました。

コロナ禍が落ち着き、何年かぶりに下田に帰省したときには、全く変わらない姿で迎えて欲しいなと思います。


東京都中野区 大学生寮 AYさん



一昨年、念願だった天城従走をすることができた。
戸塚峠でAパーティ、Bパーティが互いの車のキーを交換、約9時間の行程で、夕方両パーティ共無事に下山した。
伊豆高原に居住しているので、散歩がてら、万三郎迄は何回か経験しているが、戸塚峠から先は初めてだったが、
何か京都の名庭を思わせる。
静かで快適な山行だった。
学生時代から山岳会に戸属し、北アルプス、南アルプスに足跡を残してきた。
しかし、今思うと、サミットハンター的な事に重点を置き、山の深さ、静かさの中で、一歩一歩、歩く事の楽しさが、
この歳になって分かって来たような気がする。

従走した仲間が二人、同時に昨年ガンの手術を受けた。
正直心配したが、元気になり、又いつか従走し下山地で温泉に一泊もありかなと思っている。
この伊豆の山、素晴らしいと思うが、交通の便が悪く、アイデアだが、東伊豆、西伊豆、南伊豆の旅館、ホテルの方が相談して、
登山地、下山地の送迎プラン付きの宿泊を計画したらどうだろう?

それと、印象に残ったのが八丁池だ。少し、もやっていて幻想的な空間に驚いた。
仕事がキャンドルアートで、東京等でのイベントが多いが、良質のフルートと私のキャンドルがコラボすればいいね…
とちょっと思った。

コロナもいつかは見えて来るだろう。
みんなの笑顔、いつかは見たいね。


伊東市大室高原在住 K・Jさん



「伊豆下田の山」

日本一の富士山と伊豆下田にある下田富士と八丈富士が姉妹富士だったという昔話を、みなさんご存知ですか?
下田富士と八丈富士から離れた所にいる駿河富士(富士山)はお姉さん会いたさに毎日背伸びをしていたら日本一になり、
下田富士は自分が駿河富士と比べられるのが恥ずかしくなり天城山に隠れる様にしていたら背が縮んだという説を見聞きした事があり、
だから下田富士と言う名前があるのかと、納得しました。

白浜から蓮台寺にかかわる高根山。高根山に祀られているお地蔵様は、夜に漁に出た船が港がわからなくなった時、
額から後光を照らし、港を知らせ、漁師を助け、それからお地蔵様を祀り、お祭りをする事になったと言ういい伝えもあります。

下田ロープウェイがある寝姿山。これは女性が寝ている姿に見えるから寝姿山と言われています。
この寝姿山には、ロープウェイで山頂に登る事もウォーキングでも登る事もでき、四季折々の花々が咲き誇り、
山頂からの景色は絶景で、寝姿山を訪れる人達を目で楽しませ、鳥達のさえずりで癒される山でもあります。

この様に、下田だけでも素晴らしい山は沢山あります。
今の子供達の間では昔話ってどれくらい浸透しているのでしょうか?
昔話は途絶えてはならないと思います。これからも機会があれば下田の山の素晴らしさを言い伝えて行きたいと思います。


下田市在住 K・Mさん



富士山が見えた!」
 
   
 ~ ロープウエー石蕗の花咲く頂上へ

  みなさんは、下田から富士山を見たことがありますか。
  私は兵庫県で生まれました。中学の修学旅行は東京でした。その時車窓から見えた富士山の雄姿は忘れられません。
思わずスケッチし、「また会いに来るからな」などとつぶやいたことを覚えています。
  その後、静岡の大学に入り、下田の女性と結婚し、住むことになるのですからおもしろいものです。

  さて、昨年から2月23日は、天皇誕生日でお休みですが、今から10年前、静岡県では、この日を「フジサンの日」として、
富士山の歴史や伝統、日本人の思いなどを学ぶ日とすることになりました。

  この日を休みにしない市町も多かったのですが、下田市ではこの年、学校を休みとし、故郷への思いを深めてもらいたいと、
様々な行事が計画されました。
  その一つとして、小中学校の子どもたちと下田富士と寝姿山に登り、下田の歴史を知り、郷土を愛する思いを深めようという活動が企画されました。

  まず、下田富士に登り、頂上で教育長が、三姉妹である駿河富士と八丈島の富士と下田富士にまつわるお話をしました。
  全国にたくさんある富士と名のつく山の中で最も低い191mの下田富士。
「下田富士の伝説」は、「下田富士は、美しい妹の駿河富士に顔をを見られないように、天城山を屏風のように立ててしまった。
気だての優しい駿河富士は姉さんの下田富士のことが心配で、姉さんはどうしているだろうと、毎日伸び上がったので、だんだん背が高くなり、
日本一高い山になった。八丈島の富士は、二人の姉が仲良くなるように遠くの海から祈り続けている」というお話です。
個人的にも下田富士には何度か登りました。赤ちゃんの長男を抱いて登ったこともあります。

  次に向かったのが196mの寝姿山です。本来は万蔵山ですが、女の人が寝ている姿に似ていることから寝姿山と呼ばれています。
ロープウエーに乗って頂上を目指します。展望台から見る神子元島や伊豆の島々、下田湾、空と海の美しさはたとえようもありません。

  ここで、駿河富士を見ることが計画されていました。五島氏の碑がある細道を抜け、少し広い場所に出ます。
  そこから北を見ると、山と山の間から真っ白な雪を被った富士山頂が見えるのです。
青空の中にくっきりと浮かぶ富士山の頂。その白さ、美しさに参加者一同驚きの声をあげました。
私自身、10年経ってもその感動が薄れることはありません。

  もし、まだ、下田から富士山を見たことのない人は、ぜひ挑戦してみてください。きっと心が動かされること間違いなしです。

    ~  遊覧船バックして出る春の海 

下田市在住 M・Kさん



「伊豆の山への思い」

朝歩き左手に明星共にして…。
この静かな下田の里山から、名も知らぬまだ黒いかたまりに見へる山の端に、
クッキリと輝く明けの明星、黒き山のシルエット。
このあさぼらけの中を2年前にみまかった愛犬とズボンのすそを朝露で濡らしながら、雨に降られぬ限り私の日課でした。
この里山の朝の香りを胸に一杯吸い込み、甍(いらか)の営み、ここに1日が始まる。この時が一番好きなときです。
思い出の一コマです。
が、しかし、伊豆の山…特に街に近い山々はよく見ると病んでいます。
竹の勢力がはびこっているように見受けられます。
山肌に緑の枝々ではなく爪楊枝を刺した針山のごとく見へます。
山への手入れが出来ない状況が発生しているのでしょうか。
山の地産者の高齢による又は害獣駆除等の手不足。
山の整備等々、課題はたくさん抱えていることでしょう。
伊豆の山々が次世代に引き継がれるその時に、主役となるべき若き人々に負担を押し付け、
不便で窮屈な市民生活を強いる事のないようにして、次の世代の人々に不愉快感を与えないように心がけたいものです。

四季の変化に、人々の心のよりどころとなる観光の最大の売り物となる伊豆の山々が、いつまでも心も体も癒してくれる…
そんな山々であって欲しいと切に願っております。



下田市在住 KSさん 80才無職



「伊豆の山への思い」

冬のある日、東伊豆町の三筋山山頂に上った。
穏やかに晴れた日で、眼下には伊豆七島の雄大な眺めがあった。
伊豆半島の景色は、数十万年に渡り続けられている地球の造山運動の現在の姿である。
考古学の研究から、神津島の離れ小島である恩馳島(おんばせじま)産の「黒曜石」が日本各地で発見され、
段間遺跡に立つ河津東小にも多くの資料がある。
強風と黒潮の速い流れで海の難所といわれる石廊崎沖、黒瀬川(黒潮)の流れを必死で渡る古代の人の姿が、
心に彷彿として思い浮かぶ。
縄文人の時代は数万年前にさかのぼる。知恵を持った人間は、悠久の自然から多くを学び、自然の恵みを得て、
文化を育み歴史を紡いできた。伊豆の各地に、古道、石仏、神社や仏閣、古戦場など、人々の営みの痕跡が残っている。

別の日、天城の背骨である万二郎岳、万三郎岳の山稜を歩いた。
天城山系を「水源」として、北に狩野川、南に河津川などの河川が流れる。数百年単位で世代交代をする天然のブナ林。
ドングリから実生の若芽が出る。落葉広葉樹のドングリは野生動物の存在を支えている。

50年ほど前にはうっそうと生い茂っていたササやシノダケなどが、今は鹿の食害で跡形もなく消えている。
河津川は、水源から柱状節理による河津七滝(かわづななだる)の中流域を経て海に至る。
山から海底に至るまで様々な環境をつくり、その環境が多様な生態系を生み出した。
その動植物を糧として人間の進化があった。命の根源である「水」を中心にして、自然に寄り添う人の営みは、
自然エネルギーの循環、自然への負荷を避ける視点が前提である。
「生態系」の観点は、先進的な治山・治水、自然エネルギー等の土木工事に不可欠である。

私たちに大事なことは、生活を維持し今を生きることであり、これからも生き続けることである。生きる基盤は自然であり、
そのためには「共生」するしかなく、自然の「生態系」の中での人間存在を意識した生き方しかない。

自然を変える力を獲得した人間の傲慢さが、知らず知らずのうちに人間社会の生きにくさや格差を生み出している。
体験を通して自然を理解し、その声に耳を傾ける態度こそが、自然のしっぺ返しともいえる災害への備えとなる。
自然から学び科学技術を進歩させる賢さと、同じ過ちを繰り返す愚かさを合わせ持つのが人間の性(さが)だろう。
自然と折り合いをつけながら、持続可能な開発目標を掲げ、発展していくことを期待するしかない。
そのためには、過去に学ぶ謙虚さと他者の痛みを理解する感受性が必須であり、「知足(足るを知る)」の考え方が生きるヒントになる。

「観光」の意味は、他国の制度や文物の視察の意から、見聞を広げる遊覧に、そして体験や交流を中心としたツーリズムに広がった。
来訪者を迎える地方の人々が地域の価値を理解し、地域文化を守りながら観光を仕事として生活することが、観光業の根本ではないだろうか。
伊豆の魅力は、この自然の多様性に育まれた歴史と文化であり、都会にはない風物の価値である。
海や山の端からのぼる満月の明るさ、闇夜に群舞する蛍の幻想的な光、かつて伊豆の「闇と暗さ」の有利さを指摘した旅館の経営者がいた。

自然とともにある伊豆ならではの価値と魅力、伝統と精神文化の再発見。地域の価値を開拓、開発し、
その価値を発信できるリーダー作りや、それを支えるしくみ作りこそが大事なのではないだろうか。

箱庭のような「伊豆の山」の高みから、遥かに続く「山と海」を見ながら思った。


特定非営利活動法人豆游義塾 理事長 OIさん




山の景色」

「おはようございます。鳥の声で目覚めるっていいですね。」次男の妻が言いました。
また、地域活性化について講演会があった時こと。
講師の方が「会場に入る前に車で1周してみましたが、雑木林が多く、とてもやさしい山を見ました。」と話されていました。
もう20年も前のことですが、私は、この2つの話から、自分が50年以上も住んでいる山里の良さに気づきはじめました。
下田市の山あい、稲梓地区に住んでいます。何もなく、冬はとても寒い山奥です。
鳥の声、今だったらウグイスの声で目覚めるなんて、私には当たり前の日常です。
山の景色、ちょうどこれからの季節の芽吹きの山は、とてもすばらしいです。
いろんな木が芽吹きをはじめて、何という色でしょう。
アサギ色、もえぎ色、少し赤味の色、日々刻々と変わり、だんだん濃い緑へと変わっていく。5月の連休頃には、ブロッコリーみたいな山になる。
秋には。この山が紅葉します。
私の畑のすぐ上に大きなケヤキの木があり、それは見事に紅葉します。
車で通りかかった人が車を止めて見入ります。
秋の稲が実った時の田の風景も、のどかでやさしい気分になります。癒されます。
何もない当たり前の日常が、本当はすごく幸せなんだと、年とった今だから思います。
自然のうつろいを感じながら、暮らす事に満足しています。

稲梓の山の景色、見てみませんか。


匿名希望



「とっておきの話し」

「伊豆の山への思い」の賞品が高橋養蜂さんの蜂蜜だと知り、応募しなければ…と思った。
私と高橋養蜂との出会いは、以前「感動エピソード」に投稿している。(今読むと書き直したくなる文章…)
高橋養蜂の高橋鉄兵社長は、「蜜蜂がいなくなると人間は滅ぶ」というアインシュタインの言葉を知り養蜂家になった方。
そのことを伊豆新聞記事で知り感動し、私が投稿をしたことでご縁が出来た。

実際見学させていただき、伊豆の山を守ろうとする姿に感動!そんな人が作る蜂蜜は当然おいしい!!

蜂蜜の話しでもう一つとっておきの話がある。
2010年頃の伊豆新聞でとても感動した記事があった。コピーを今でも大切に持っている。その記事とは…
《「野口観光社長 父の遺志継ぎ1000万円 下田市奨学振興基金へ寄付」  
北海道の登別や函館、洞爺湖、層雲峡などでホテルチェーンを展開している野口観光の野口秀夫社長(62)から
下田に奨学振興基金として1000万円が寄贈された。

昨年12月末、91歳で亡くなったグループ創業者の秀次氏が下田市柿崎出身で、
これまでも同社からは「青少年教育のために役立てて」と1998(平成10)年から2006年まで総額4300万円が寄せられている。

秀次氏は1932(昭和7)年に柿崎尋常小学校を卒業した。船員として商社会社に勤務し、44年には北海道へ転勤、
戦後間もなく独立し、貨物船で建材運搬を手がけ海運から自動車販売代理店、石油販売と事業を拡大、
63
年に登別プリンスホテルを開業した。その後、道内各所に14軒のホテルを経営するグループ企業の創始者となった。

柿崎尋常小時代、父親の病気看病で欠席したとき、担任の石井智先生が、ハチミツを持って現れ、父親を見舞い、
秀次さんを励ましてくれた。そのことがうれしくて忘れられず、恩に報いたいと、下田への寄付が始まった。

私はいつか、野口観光のホテルに泊まりたいと思っていた。
その思いが2019年に湯河原で実現した。北海道まで行かなくても思いが実現できたことは嬉しかった。
今は四軒その近辺に宿がある。湯河原の山奥にある『山翠楼』はとても素敵な宿だった。
私は事前に『泣いて笑って八十年』野口秀次著の存在を知って、宿に着くとすぐに購入した。
部屋にも置いてあり、夢中で読み、私の大切な一冊になった。石井智先生のことが、詳しく書かれている。


「石井智先生の思い出」
《柿崎尋常高等小学校五年生の時の担任が、静岡の師範学校を出たばかりの若い石井智先生でした。
 石井先生は生徒全員、だれかれの分け隔てなく接していましたので、生徒からも人気のある先生でした。
 ある日のことです。父が寝込んでしまい、私は看病のため学校を休みました。
その日に石井先生が一升瓶に蜂蜜をいっぱい入れてお見舞いに来てくれたのです。
わざわざ訪ねて来てくれたことへの感激はもちろんですが、それ以上に「野口君、お父さんをしっかり看てあげるんだよ」と、
まだ子供だった私を一人前に扱い、心から話しかけてくれたことに私は喜び、自分の役割や責任についての何かをこの時、学んだように思います。

子供ながらも頼りにされていると思えば張り切ります。先生が何でも知っていてくれると思えば安心もします。
その時の情景は今でも思い浮かびますし、感動の気持ちも忘れていません。

 後年になって事業を起こし、多くの人と働いてきましたが、少し無理かなと思うような場合でも、
仕事を任せ責任を持たせると大抵のケースは大丈夫でした。人は本来、信頼に応えようと努力するものだと思います。

今、当社では大勢の人が働いています。組織が大きくなれば、それなりの制度や規制が必要なのは言うまでもありません。
しかし、私は上に立つ人には管理能力にも増して「徳」という人間性が求められているように感じます。

力だけで人を心服させることはできません。何かしら人の心を暖かくさせ、気持ちよく働く意欲を起させる、
そうした人間性が自然とにじみ出ている人を「徳のある人」というのではないでしょうか。

そうした人は学ぶ心が豊かで謙虚ですから、周りの意見に素直に耳を傾けます。皆の意見が集まりますので、
適切で自信の持てる方針が生まれます。部下も「この人のためならば」と慕うのです。

私は未熟者で未だ石井先生の情熱には及ばないのですが、先生から受けた恩に報いるためにも、
これからも人として学ぶことに情熱を注ぎたいと考えています。

良き師から学んだことや受けた恩を次の世代に手渡していくことも、心豊かな人生をすごす道ではなかろうか、と思うようになりました。》
読後、あまりの感動に、この本を下田市の成人式の時のプレゼントにしたらいいのではないか…
そんなアイデアが浮かびながら、そのままにしていた。

私は最近、伊豆新聞をデジタル版で読むようになった。
そして見つけたのが、2021.2.16の記事「下田市のホテル観音温泉に紺綬褒章」だった。


《下田市はこのほど、横川で温泉旅館「観音温泉」を運営する滝野川自動車に紺綬褒章を伝達した。
同社は2019年7月、「下田市の振興に役立ててほしい」と多額の現金を寄付。
市からの上申を受けた政府が公益のために私財を寄付した個人・団体に贈る同褒章の授与を閣議決定した。
松木正一郎市長が観音温泉に鈴木和江会長を訪ね、「下田の格を上げるホテルを経営し、事業を通した寄付もいただいた。
貴重な浄財を下田の発展のために使いたい」と言って褒状を渡した。鈴木会長は「下田市の観光振興のため、
今後もお客様の声を聞きながら一歩一歩前進していきたい」と喜び、抱負を語った。》

下田の山の中の観音温泉は、私も大好きで、日帰り温泉には何回か行った。
今度は泊まりに行けたらと思っている。鈴木和江会長は、よくラジオ番組に出ていたので、とても素敵なお人柄の方…と思っていた。

月刊『致知』を私は購読している。3月号の表紙が下田高校の前身下田北高校出身の文学博士・鈴木秀子先生であることがとても嬉しかった。
小説家で精神科医の加賀乙彦氏との対談が載っている。
鈴木先生の「…かつて読んでいた名作の一節が頭に浮かび自分を助けてくれるという経験をすることもあります。
人間が自分自身を知るのは何か優れたものに出合った時だといわれますが、
名作はまさにそういう役割を果たしてくれる大切な宝だと思うんです。」がとても印象に残った。

2年位前に東京で鈴木先生と会えた感動は、伊豆新聞に投稿した。「感動エピソード」には、
「与えられた縁をどう生かすか」との題名で鈴木先生に関する投稿をしたことがあった。これも先生と生徒の出会いの感動エピソード。

伊豆新聞デジタル版の「潮の響」『幕末の下田に思いはせ 渋沢栄一が下田市柿崎の「玉泉寺」とゆかりが深いと知った。』を読み、
嬉しく思った。
214日の東京新聞に「渋沢栄一特集」が載っていて、不滅のバイブルと紹介されていた『論語と算盤』で、
「道徳と経済は合一すべきである」との渋沢栄一の考えを、詳しく学びたいと思っていた。

色々書いてしまったが、コロナ禍で下田の観光業への打撃がとても心配な日々。
「野口観光」も大丈夫かな…との心配もある。(メルマガが今日も来た)また恩返し(?)で泊りに行けたら…そんな思いでいる。
『泣いて笑って八十年』を久しぶりに手に取り、感動を新たにしている今日この頃…私も出会えてよかったと思われる人にならなければと思わされた。



東京都世田谷区在住  S・Rさん





(海・山の部)

「海彦、山彦」
序文「伊豆は野宿によろし、あたたかく波音も」山頭火
漂泊の俳人、種田山頭火はすでに伊豆を旅し、泰平寺(市内)に石碑を残しており、先見の明ありの海の景より。
小生、73才の老女です。白浜の海に育ち、稲梓に嫁して50年。
縄文の時代より、はるか太平洋、伊豆七島より海神(わだつみ)を呼び、三穂ヶ崎という祠に神を呼び、
白浜神社他、神、仏の御加護で今日まで歴史は続いています。

海は大きく言えば、富をもらい、人の心を和らげ、今でいう、人と人とのコミュニケーションの原点だと思います。
その反面、台風、北東の風(ならい)は一たまりもありません。冬の風物詩「飛砂注意」。

私の拙い一句。
白浜と海神が呼ぶ初詣
山の景より。
嫁して12年、視界が開けぬ山々で、前にぶつかりそうでした。
「行こか柿崎、もどろか下田、ここが思案の間土ヶ浜」まで来ると、下田湾が一望でき、ほっとした記憶が残っています。
山には山の良い所、いっぱいあり、こんこんと湧水で山葵栽培、56月は田植え、蛍の乱舞、山の人は堅実で、一方で頑固者多し、もう一句。
一山を知りつくしたるわらび狩り
最後に、海、山の交流もありました。
戦後、海には田畑が少なく、田植えの手伝いに来て、米を配給してもらい、夜の漁火の「いかつけ舟」一足(100匹)豊漁貧乏で、
山の方へリアカーで小売に…民宿、海水浴の盛んな時は、浜の掃除、売店(山のおばさんの出番でした)

もう1
風うけて屋号で記す砂日傘


下田市在住 TKさん



「伊豆の山への思い」「伊豆の海への思い」

 212日、コロナ禍でずっと引きこもっていたこともあり、ちょっと散歩でもしようか、と子浦から日和山への遊歩道を歩きました。
3kmほどの散歩、と思っていたのですが、急な上り坂が続き、まるでグレートトラヴァースみたいな感じでした。この年でよく登れた、と思います。


 昨日(217日)は、西伊豆へドライブに行きました。
仁科を過ぎて浮島(ふと)海岸というところに立ち寄りましたが、奇岩連なるすばらしい景色でした。
そこに折からの西風が吹き付けて高くしぶきを上げ、一層の興を添えました。
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号線沿いは何度も走ったことがありましたが、海岸沿いの集落に入ったことがなく、今巡り合えて感動しました。


 子浦の山道も、浮島海岸も、下田に長く暮らしながら今まで経験したことのない光景でした。
これを知らずに過ごすのは本当に惜しい。「伊豆・秘密の光景めぐり」などと名前を付けて、
新聞や旅行雑誌などで取り上げてもらったらいかがでしょう。
コロナで人の多くいくところは遠慮すべきですが、だれもいない山や海の絶景を愛でるには最適の条件ではないかと思います。
大田子海岸は夕陽の名所だそうですが、昨日は3時間も待っていられないので帰りましたが、
朝に夕に、また四季折々の楽しみ方があるのではないでしょうか。


下田市在住 N・Kさん