「伊豆で見つけた感動のエピソード集」


         「一年に一度の出会いに感謝」

私は、西伊豆の雲見温泉で小さな小さな宿屋を営んでいます。
宿屋を営む中で、ほんの小さな感動から大きな感動を、訪れるお客様から頂いています。
旅人の疲れを癒し、心がほっこりする場所。
そんな宿の中で、私の一番の感動は、お客様が玄関をくぐるときです。
何時間もかけて来てくださる。様々な思いの旅。感動=感謝の気持ちが生まれる瞬間でもあります。

お客様をお迎えするときに、こんな言葉がでてきました。

一年に一度お会いできることは本当にありがたく、「待ってましたー」
「おかえりなさい」
とつい言ってしまいます。いつの間にか、お客様と宿屋の関係から、
親戚のような家族のような関係になっていきます。私を娘のように、子供を孫のように。
小さかった子が大きくなって田舎の自分の家のように訪れてくれる…。伊豆へ旅に来て、
そんな関係を築いてもらえるのが、私にとって何よりもの感動です。


追記 特に震災後は伊豆半島の観光客も激減しています。
今は、毎日毎日がお客様のお顔を見られるだけで感動しています。
5年後、10年後も、この受け入れる側の感動が続いていれば、
きっと旅人も田舎の人の温かさに触れ、景色・温泉・食の感動を感じると思います。
そして、私たち世代が次世代へバトンタッチできるよう、伊豆での出会いに感動が続くことを願っています。


                        (松崎町雲見在住 高橋亜希子さん)

「愛情とは、いつ息子が帰ってきても、好きな料理をつくってあげる準備のこと」

私は土肥温泉に勤めている28歳の者です。
伊豆にいらっしゃったお客様に、お勧め観光スポットのご質問を受け、それにお答えするのがメインの仕事です。
(食・自然・温泉・芸術等)そのため、休日を利用してのフィールドワークが欠かせません。
実際は趣味としてやっているので、楽しくありがたい仕事だなと思っています。さて、ここからが本題ですが、
先日、土肥金山敷地内の「味蔵山」というお食事処で出会ったエピソードです。
ここは、28歳の私のちょうどお母さんにあたる年齢の、土肥に住むママ達が、
地元で採れた野菜のサラダや煮物のバイキングをメインにして、干物やお蕎麦の定食を食べさせてくれる温かいお店です。
私が食べにいくと、料理を作ってくださるママの佐藤久子さんがニコニコと迎えてくれます。
佐藤さんの元には、毎年1回千葉から、ママのつくる「きゃらぶき」を目当てに食べにくるお客様がいるそうなのです。
佐藤さんは言います。「いついらっしゃるか分からないのね。
それに季節によってふきが収穫できないときだってあるの。だから、新しく採れたふきを、
その都度冷凍にしておくのよ。だってせっかく来てくれたときに、
楽しみにしている「きゃらぶき」をつくってあげたいもの」息子の帰りを、息子が大好きな料理をつくって待つ、
お母さんのようです。
これこそ、真心のこもった愛情なのだと思います。
私が高校生の頃、予備校終わりで家に着くのが、夜10時を過ぎるというのに、
夕食を準備して待ってくれて、食べる僕を見守っていてくれた母親を思い出しました。
胸の奥はキュンキュンして、温かくなりました。
サービス業に従事する私が、学ばせて頂きました。お客様のことを考えて、温かな気持ちで日々準備をしていきたいと…。
ここ「味蔵山」では、あたたか〜い、真心の愛情に触れることができました。


                                       (伊豆市土肥在住 杉本正太郎さん)


          「謙虚さを学んだ講演」

2014年1月に伊豆の国市で行われた、さわやか福祉財団理事長で弁護士の堀田力さんの
「子育て講演会」に参加しました。
以前に『「人間力」の育て方』を読んでとても感動したので、伊豆新聞で「元東京地検検事が講演会」
を見つけた時はとても嬉しく思いました。
本の「はじめに」には「日本の子どもたちはこれで大丈夫でしょうか。子どもなのに、無気力すぎませんか。
簡単に、「分かんない」といって問題を避けていませんか。
私たちが子どもだった頃の仲間は、いい意味でも悪い意味でも、もっとヤンチャだったように思います。
世界の子どもたちも、はるかに活発で、子どもらしい好奇心と行動力にあふれているように思います。
日本の大人は、子どもたちの育て方や教育を間違っていないでしょうか」と書かれ、とても共感させられました。
また、「自主性、自律性を認めてもらえず、考えることより覚え込むことを強いられた子どもたちは、
どんな人間に育ったでしょうか。私は、そういう大人たちに、嫌というほど接してきました」
共感する箇所は数多くありましたが、中でも一番共感したのは「これからは、社会的地位やポストや収入、
資産で幸せになれる時代でもなければ、尊敬される時代でもありません。
幸せになれる基本的な要素は、自分がしたいことがどれだけやれるかです。
地位やお金は、それが自分のやりたいことに役立ってはじめて意味をもってきます。
逆に、地位やお金を得てそれを鼻にかけているような人は、軽蔑されるだけで、
不幸な寂しい人生を送るようになっています」に感動しました。
なかなか都会と違って講演に行く機会が無いから本を読む訳なのですが、
今回講演で堀田さんにお会いして一番感動したのは、「謙虚さ」でした。
「凄い方なのに謙虚さに感動」と近所の年輩の女性にその事をお話すると、
「そういうものよ。どうでもいい様な人が威張っていたりね…。」その言葉に、気をつけなければと、思わされました。
講演会は「テレビ静岡」の「テレビ寺子屋」の収録を兼ねていました。
平成26年5月31日、6月14日の9時55分〜10時25分の放送です。
「テレビ収録なのでメモはだめ!」でしたので、テレビを見てまた勉強したいと思っています。


                                            (下田市在住 佐生綾子さん)


          「行けなかった講演会」

平成26年2月1日に伊東市観光会館ホールで行われた大塚貢氏の講演「食で変えませんか、
心と体を健康に」を聴きに行く予定が行けなくなり、「給食で死ぬ!」という、
先生と他2人の共著の本を取り寄せたところ、DVDが付いていて、
私は自宅で先生の講演を一人で聴ける事となったのです。
本の表紙にも、「いじめ、非行、暴力が給食を変えたらなくなり、優秀校になった、長野、真田町の奇跡!!」
と書かれていますが、本当に食の大切さを改めて感じさせる素晴らしい内容のお話しで、
心から聴けて良かったと思いました。
いじめ、学力の低下等の問題が、小手先の事では解決しないであろう事は、私自身も以前から感じてはいましたが、
食にまでは辿り着いていなかったので、驚きもありました。
2月21日の伊豆新聞にも内容が載せられていましたが、
「調査してみると、約38%の生徒が朝食を食べてこない。この食べてこない子に非行、犯罪や無気力が多い。
どうしてかと思って調べたところ、夕飯を食べる時間はだいたい7〜8時。学校の給食は午後0時半から。
16時間ぐらい何も食べていない計算になる。だから勉強に対するエネルギーが湧いてこない。
無気力になったり、空腹でイライラしたりする。そのはけ口が、いじめや八つ当たり、非行、犯罪になる」
朝食の重要性を改めて感じました。私は小学校へ読み聞かせに行った際、
最初に「朝ごはん食べてきましたか?朝ごはん食べて来ないと脳ミソが働かないから、食べて来てね」
と声を掛けるようにしています。
「給食で死ぬ!!」のあとがき、「やむにやまれぬ思いを持った人間が世界を変える」にも、とても感動しました。
「この本は、全国のすべての親御さんに、本当に読んでほしい本です。そして付録のDVDを、
是非多くの親御さんに見てほしい、と切に願います。
大塚先生の本気が、長野県上田市の中学校、小学校の未来を変えたのです。
先生の子どもたちへの愛、教育に賭ける情熱、その慈愛に満ちた表情とまなざしに触れることで、
みなさんの人生が大きく変わるキッカケになる、と確信して出版社に強引にお願いして添付されることになったDVDなのです。
2011年の東日本大震災、そしてそれに続く福島原発事故から1年半が過ぎようとしている今日、
私たちは問われています。自らの未来を。自分の愛する者の未来をどうしたら守れるか?と、
絶望的になってしまうことも多々あるでしょう。
日々接する政府、行政の無策、当事者意識、危機感の欠如を見るたびに、私自身も無力感、絶望感
に苛まれることは度々です。しかし、「あきらめるわけにはいかない」それが愛する者を持つ人間の責任ではないでしょうか。
大塚先生はあきらめなかった。「どんな人間にも、自分にしか伝えられないことがあり、
自分にしか支えられない人がいる。これは私の信念です。
この本を読まれた読者の中の1人でも多くの人が、自分の中に「やむにやまれぬ思い」を発見し、
自分の愛する人々のために、志に燃えて生きる方が生まれることを願い、祈り、筆を置かせていただきます。
2012年5月28日 一般社団法人エジソン・アインシュタインスクール協会 専務理事 井上祐宏」
私が一昨年、娘の中学校で「前例がない」と言われながらも初の女性PTA会長を引き受けたのも、
少数派とわかっていてもペンを取り、投稿し続けるのも、私の中の「やむにやまれぬ思い」
がそうさせているのだと思いました。また一人、素晴らしい方の存在を知れた事に感謝しています。


                                               (下田市在住 佐生綾子さん)


           「全国巨木フォーラム」

2013年11月に伊豆市天城会館で開催された「第26回巨木を語ろう全国フォーラム静岡伊豆」
に娘と参加しました。『「フォーラムは、巨樹巨木と森の文化を未来につなぐ」をテーマに開催。
常葉大学社会環境学部の山田辰美教授が基調講演』を伊豆新聞で見つけた時、絶対行かなければと思いました。
毎週土曜日SBSラジオで「山田辰美の土曜はごきげん」を聴いていて、
先生の価値観に共感をさせられる事が多かったからです。
講演が始まって間もなくの発言「文明が台風を巨大化している。そういう事に気付いても良いのでは?」に、
私も伊豆大島台風の被害を悲しむと同時に、私達の価値観を変えなければ、環境破壊が増々進み、
地球温暖化も進み、自然災害は増え続けるのだろうと感じていました。
「森の働きを皆で確かめ合うような社会にしなくてはいけない」「「文明は欲望によって加速する」
「日本は森の国、何故この教育をしてくれないのか?」にも共感しました。
中伊豆中「マメザクラ保護活動」天城中「シカ柵設置後の植生調査」
伊豆総合高自然科学部「伊豆半島ジオと植生」等の発表もあり、
もっと子供達にも聞いて欲しいと思ったのですが、ほとんどが大人の聴講者でした。
今年成人式前日の「土曜はごきげん」に送ったメッセージ
「息子は留学先のアメリカから帰って来られず、成人式には出席できませんが、
新成人に贈りたいケミストリーの『約束の場所』をお願いします」が読まれ、
リクエスト曲もかけていただき、嬉しかったです。


                                               (下田市在住 佐生綾子さん)


         
「伊豆の風と遊んで」 

昨年初秋、用事で夫と下田へ行きました。その日の夕食は外でと思い、宿泊のホテルを出ました。
暗くなった街の通りで食事処を見つけるのは大変でした。街角を曲がり、ある店の前で夫が足を
止めたのです。のれんを外す間際の様子でした。(こんなに早い時間に店を閉めるのかしら…)
と驚きましたが、伺うと快く「いいですよ。どうぞ、どうぞ」と、明るい声で、突然の客をまるで
知り合いの方を待っていて下さったかの様に案内して下さりました。
2人だけの貸切店内で、夫が「昔、店主と山歩きに行ったことがあるよ」と言って、青春当時を
懐かしんでおりました。下田料理を満腹にいただいて嬉しかったです。
レジ横で「また、お待ちしています」と見送って下さった従業員さんの笑顔も素敵でした。
それから1ヶ月後、友人達との集いがあり再び下田へ。
寝姿山山頂に咲くリトルエンジェルの花と下田湾とのコントラストに感動し、ホッとする風景に
出会え、山頂で夕暮れ時まで楽しんでいました。
山頂で海を眺めながらふっと昔を思い出しました。
それは、50年位前、下田をとても好んで毎年のように夏に下田を訪れ滞在されていた作家のことを…。
作家が下田の海を舞台に書いた小説があることを…。
私は下田を離れて40年ですが、山頂から見える下田の海の色だけは変わっていないことに安心しました。
東京から来た4人を含め、12人で再会を喜び、楽しいひと時を過ごしました。
2次会へ向かう途中、ある彼女が「明日、朝早く漁に出るのでここで失礼します」との事で、
帰路に向かう彼女へ手を振りました。次に訪れた店で歌う友人達は満足顔。
黒船哀歌やお吉物語も流れました。私も是非、下田の歌をと思い「千鳥なぜ啼く、下田の沖でョー」
と歌いました。以前、伊豆文学に詳しい先生が、作詞者の高橋掬太郎の「下田夜曲」について教えて
下さったことがあります。それは、この詩の冒頭二行の中に、下田風待ち港の、女の哀しい宿命が、
下田の女の切ないほどの人の良さにつづき、思い切る気風の良さ、下田という土地柄と人柄を誌の中
に表現している。と言うのです。
私が「下田夜曲」を歌い終わった時、居合わせたお客さんで神戸から来たという2人の青年の大きな手の
拍手に、私は赤面してしまいました。「下田夜曲」は彼らにどのように聴こえたでしょうか?
翌日、外ヶ浜の道の駅広場のイベント会場へ立ち寄りました。
地元産の天日干しのお米や農産物、海産物、地元の食材を使った食品などなど、いっぱいでした。
販売人は生産者の方々で、気風の良い声で、活気があり、笑いの会話をしながら、夫と買物を楽しんで
来ました。お客さんも多く、とても賑やかでした。これからも定期的に、日時を決めて「下田じまん市」
の名称で開催されることを期待します。
新年になったある日、早朝の寒い海で漁に出て、ご主人と一緒に作業をしている彼女から宅配が届きました。
「小さい伊勢エビだけど食べてね」の手紙を手にした私は、目頭が熱くなりました。
苦労もいとわない心の暖かさを持ち続けている彼女に、感謝の気持ちでいっぱいです。
伊豆のそれぞれの地区で活躍されている方々を、新聞やテレビで拝見しております。
豊かな自然と、人との出会いを大切にしていただき、伊豆の地元の皆さんが、力を会わせて伊豆に観光等
で訪れる方々に、伊豆を好きになってもらえるようなアピールも大事ではないでしょうか。
近づく黒船祭をきっかけに、伊豆の心意気を魅せてもらいたいと思います。
私も「足を運べば発見と感動がある」を心して人生の旅を続けたいなあと思っております。

追伸 今年も下田の野水仙が、ふる里へ想いを寄せているかのように庭先で咲いています。
   恐縮ですが、以前提案したキャッチフレーズを記します。

(1)時間(とき)と自然と遊ぼう伊豆下田
(2)黒船電車で行こう伊豆下田、良(い)ことあんからさあ!!

つたない文で失礼いたします。


                           (静岡県葵区在住 渡邊かな江さん)


            
「伊豆の未来は教育にあり」 


2014年の元旦、親戚の家へ行った際、パティシェが夢である高1の娘が「フランス語を勉強したい」
と言った事から、話題はフランス語になり、「フランス語の独学は無理だと思うよ」と何人かの経験者
に言われた。
私の妹も経験者で、フランス語の難しさを語った挙句、「フランス語を上達したければ、フランス人の
彼氏を作るのが一番速いと思うよ」と言った。
私はその時すぐ、下田にフランス人は住んで居るのだろうか?と疑問が湧いた。
その何日か後に、ある記述をパソコンで見つけ、私はとても感動してしまった。
それは、日米修好通商条約を締結したことで知られる、初代駐日米大使、タウンゼント・ハリスについて
の記述である。「家が貧しかったので、小学校、中学校卒業後、すぐ父や兄の陶磁器輸入業を助け、図書館
などを利用して、独学でフランス語、イタリア語、スペイン語を教えるなど貧困家庭の子女の教育向上に尽くした」
である。私はとても感動し、ハリスに興味を持ち「ハリス日本滞在記」上・中・下を取り寄せ、読み始めた。
そして、開国の歴史に下田が果たした役目の大きさに、改めて感動すると共に、ハリスの出身地である
アメリカのニューヨーク州に、息子が下田高校を卒業し、留学している不思議を感じずにはいられなかった。
私は「独学」という二文字が大好きだ。だから、建築家の安藤忠雄氏を、とても尊敬している。
何故なら、学歴が「独学」だからだ。
昨年の暮れ、新宿へ講演会を聴きに行った帰りに「表参道ヒルズ」を買物目的ではなく娘と歩いた。
「独学で学んだ人が設計したんだよねー凄いよね」と話しながら…。
アメリカの息子へは、クリスマスカードに安藤忠雄氏の言葉「一流大学だろうが専門学校出だろうが、
中卒だろうが、今の時代誰も人生を保証されていません。一人一人が目の前の白いキャンパスに自分で絵を
描かなければなりません。にもかかわらず依然として一流大学に幻想を抱いている人がたくさんいます。
一流大学を卒業すれば安泰な人生が送れる時代ではなくなったのにね」と、私の言葉
「肩書ではなく、本人を選んでもらえるように、自分を磨いてください」を添えて、下田郵便局から送った。
昨年の暮れに、下村文部科学大臣の講演「この国の未来は教育にあり」を聴く機会が与えられた。
『意志あるところに必ず道あり』が下村大臣の座右の銘で、「志がある人にはどんなハンディキャップが
あっても学べるようにする」「財務省的な少子高齢化なのだから、教育予算を減らす。では木を見て森を見ず、
なので教育費は増やす」等の発言には希望を持った。
「志教育が足りない、志を持った時に子供は変わる」を聴き、吉田松陰の「志高ければ気おのずから盛ん」
を思い出すと同時に、一昨年前、娘の中学校のPTA運営委員会で先生が「無気力な生徒が多い」と言った
時のショックが甦って来た。
下村大臣は、ご自分でも話していたけれど「二世でも三世でもなく、9歳で父親を亡くしてから極貧生活も
体験し、いじめられた経験もある」方だからだろうか、弱者への思いやりが話の中で幾度も感じられた。
「この国の未来は教育にあり」を私は、「伊豆の未来は教育にあり」だとも思った。
最後に挨拶だけされた、行徳哲男氏がどんな方か知りたくて、著書「いまこそ、感性は力」を帰りに買った。
書き出しは「国難襲来す、国家の大事といえども深憂するに足らず。深憂とすべきは人心の正氣(感性)の
足らざるにあり」(藤田東湖が吉田松陰に授けた教えである)が載っていて感銘を受けた。
ハリス滞在記は、上・中・下があり、読破するのは大変だと思った。
しかし、上の終わりの頃から「下田」の地名が頻繁に出て来る様になり、ワクワクしながら読み進めた。
上はタウンゼント・ハリスの言葉「私は、日本に駐箚すべき文明國からの最初の公認された代理者となるで
あろう。このことは、私の生涯に一つの時期をかくするとともに、日本における諸々の事物の、新しい秩序
の発端となるであろう。私は日本と、その将来の運命について書かれるところの歴史に名譽ある記載をのこ
すように、私の身を処したいと思う」(1856年8月19日 日本到着前日の日記より)で始まり、
「1856年8月20日 水曜日(前略)我々は伊豆岬(下田から10哩)に、明日午前2時ごろ到着するであろう。
もしもその間に何も起こらなければ。海軍軍医ウッド博士は、ヒュースケン氏や私自身に事故があったときに
使うように止血器をくれ、キニーネの使用に関する若干の知識をあたえてくれた。午後9時、多くの帆船に出会う。
それを避けることが困難なので、エンジンを止め、夜の間艦を停止した。艦は、ひじょうによく停止している。
夜間に、雨まじりの突風」で終わった。
中の始まりは「1856年8月21日 木曜日 午後6時、陸地の見えるところに来ている。御前崎であることが
分かる。70艘にも近いだろうか、夥しい漁舟である。さっぱりとした、よい着物をまとった日本人の容姿が気に入る。
快い眺め。漁舟の群れが美しい。(中略)我々を下田の小さい内港へ導いた。(中略)下田は非常に貧しい土地で、
未だ1854年12月の地震の影響から回復していないのだとも言った。地震の時は14戸をあますのみで、この土地
の殆ど全家屋が破壊されたという」で、313頁「1857年10月5日 月曜日 私は一頭の新しい馬を入手している。
今日、日本へ来てはじめて馬にのった。鞍や手綱などを急拵えして。私は乗馬の運動をよろこんだが、悲しいかな。
下田は乗馬運動に適する場所ではない。どこへ行っても、上ったり、下ったりで、道路と称しうるものはなく、
あっても歩行するだけの道しかない。そして、至るところの道が急勾配をなしているので、一定の様式の石段が、
特に見下ろすと眩暈がするほどの角度で、つくられている」を読んだ時、想像が全開になった気がした。
でも、その前日の日記の内容に「志」を感じた。
「1857年10月4日 日曜日 私の誕生日である。私は53歳になった。私の寿命は急速に終焉に近づいている。
神よ、残りすくない生命を、有用に、立派に使用せしめ給わらんことを。私の健康は一カ月前よりもよいが、
昨年の今頃にくらべると遥かによくない。私はニューヨークと私の親愛なアメリカ人の友に、いつの日に再会する
であろうか。正直のところ、そして私の本心から、こう言うことができる。「疑わしい」。しかし、神の御心のままにと」
下田市河内の「お吉が淵」に新渡戸稲造の篤志によって、昭和8年8月に建立された「お吉地蔵」がある事を、
昨年1月26日の伊豆新聞、作家で画家のよしだみどりさんの「新渡戸稲造とお吉」を読んで知った時、私は驚いた。
「武士道」を読んでから、新渡戸ファンになっていながら、すぐ近くに住んでいながら知らずに過ごしていた事が、
残念にも思った。「下田は日本の近代史の原点を学べる最高の場所」と書かれていて、家からすぐ近くの下田市蓮台寺
にある「吉田松陰寓寄処」の事も思い出し、改めて下田の魅力を感じた。
今年1月11日の全国紙には、下村大臣の「グローバル人材育成のためには、日本の歴史を学ぶことも大切だ。現在は、
選択科目の日本史を必修化するなどの見直しも必要ではないかと考える」との言葉があり共感した。
私の手帳に書いてある、イギリスの歴史学者アーノルド・トインビーの言葉にも共感している。
「理想を失った民族は滅びる。すべての価値をお金や物に置き換えて、心の価値を見失った民族は滅びる。
自国の歴史を忘れた民族は滅びる」
私は、仙台から下田へ移住して間もない約10年前、パート先の同僚から「なんでそんな良い所から、こんな所へ来たの?」
と言われた事がある。私は無言で、その時は何も答えられなかったと記憶している。
東日本大震災を経て、以前より良い所ではなくなってしまった現実もある。
政令指定都市で文化施設も整った地から、この地へ来たことは、間違っていたのだろうか?
と、ずっと自問していた時期もあった。でも、今なら答えられる。自信を持って。今は亡きあなたへ。
「私は感性を育むために、この地に来た」と。
東日本大震災から3年を経ようとしている今、3・11から私達は何を学び、どう生きるべきかを、
これからも考え続けたいと思う。置かれた場所で咲きながら。

                                   (下田市在住 佐生綾子さん)

               「グリーンコイン」 


今年の1月、横浜に住む妹家族が2泊で下田東急ホテルに泊まりに来る。と言うので、私と娘も
1泊だけする事にしました。その時初めて「グリーンコイン」の存在を知り感動しました。
『グリーンコインは、ホテルで日々使われている歯ブラシやカミソリなどの使用量を軽減すること
により、身近なところから地球環境への負荷を軽減していくことを目的としています。お客様が
対象となるアメニティをご使用にならなかった場合、グリーンコインをフロントのコイン回収箱に
投じていただき、環境保全活動の基金といたします。年間で集計されたコイン枚数分の基金を地球
の緑化活動「子供の森」計画および丹波山「森づくり活動」へ寄付します』(東急ホテルズHP)
恥ずかしながら、私は使い捨てを使うつもりで準備していなかったので、使ってしまい、グリーン
コインは無効となってしまいました。グリーンコインの存在を知っていたら、準備してきたのに…
と残念でした。「マイカップ」「マイはし」はよく聞きますが、「マイアメニティ」も広まるといい
なと思いました。私もこれからは準備します。
チェックアウト前、フロントの近くで遊んでいた1歳の姪を見たホテルの方が、「モンスターズインク
に出てくる女の子に似てますね」と声を掛けてくださり、(ほんと、似てるかも)と気付かされ、
私は瞬間的に、性格も似てるかも…と感じてしまいました。
わからなかった妹に、「今度見てみて」と言ったのですが、あの性格はどう思うかな…。

          (下田市在住 佐生綾子さん)
  

               
「田子島ラーメン」 

私は、西伊豆町で吹きガラス工房を経営し、ガラスの器やオブジェを制作しております。
西伊豆のすばらしく美しい海に魅了され、シュノーケリングや海遊びの大好きな私は西伊豆海岸の
とりこになっております。7年ほど前から始めたシーカヤックは、海を丸ごと体験できるすばらしい
移動手段であり、海の上の自転車のようです。
この感動エピソードは、私の18年間続けている絵日記のある1日のページからです。
他人に見せるために描いた訳ではありませんので、(かっこ)内に補足を入れてあります。


2013年9月18日  田子ラーメン        


本日はひさしぶりのブロー中間作業日(吹きガラス作業以外の作業日)だったので、
OPPEKE' MONKEY(愛艇シーカヤック)と田子島ツアーを!台風18号がぬけて、すずしい晴れ、凪、
風少々とすばらしいカヤック日和だ。外洋も波が少なかったので、めざせ!田子島!!
尊ノ島のトンネルをぬけると、すばらしい景色が。右に富士山、前には静岡市、上は青空と飛行機雲、
水面下は大量のキビナゴやイワシの群。時には大きな魚がバシャ!っと音を立ててもぐる。
上空にはミサゴも飛んでいて、とても美しい風景だ。上陸ポイントはなかなか見つからず、女島を1周。
水がとてもきれいで、海底のいろいろな色、形、魚が見える。湾内とは違った、深い感じの海だ。
女島に上陸ポイントを見つけるが、そこはフジツボ天国だった。こけてずりむけになりませんように。
さっそく灯台にのぼり、そこはまさに絶景!男島を見下ろし、伊豆半島を見渡せる。
上から見る海の色はこんなにあったのかーと思う。富士山も、黄金崎もきれいだ。やっぱりもぐりたいので、
島と島の間の磯にもぐったが、急に深くなっていたので、ジョーズに食べられる前にそそくさとあがった。
見たことない大型の魚がいっぱいだった。タイドプールにも多くの魚やカニやイソギンチャクが泳いでいる。
灯台の階段の下で火をおこし、ラーメンを食べた。うまー!明日は満月なので、あっという間に潮が満ちてきた。
出航できるうちにと思い、なくなく出発。昼寝がしたいので、港内の浜にあがり、洞くつでひとねむり。砂浜を
ヤドカリが歩いている。瀬の浜に戻ったら、かなり潮が満ちていた。
ペットボトルの日向水(日向で暖めておいた水)でシャワーをあび、初めて田子漁協のスーパーで買い物をした。
その後、図書館に行き、帰ってカヤックを洗い、乾き待ちの間、漢字クロス(景品付きの漢字クロスワードパズル)
をやった。賞金、商品ねらうぞ!!あー今日も楽しかった。

                                (西伊豆町在住 生島 賢さん)

            「正ちゃんの星座」

義弟の正ちゃんとは、何かにつけて相性が良く、1カ月に1度は「踊り子」に乗って、
下田の我が家に遊びに来た。
2人共酒が大好きで、酔いが廻ってくると、オヤジ2人、肩を組んで夜空を見上げたものだ。
そんなある日、伊豆にしては珍しいほど凍てつく夜に正ちゃんが、「星がとても近くに見えて、何かを語りかけてくれるね。
時には優しく、時には突き刺さるように届く光は、感動ものだね。下田の星空は日本一だ」と言ったことがあった。
それから1週間後、心不全で正ちゃんは急逝した。星空の美しさに今まで気づかなかった私に、
正ちゃんは大きなプレゼントを残してくれた。正ちゃんのいる星空を見上げて、グラスの酒を飲み乾かす私がいる。


                               (下田市在住 中川浩志さん)



                 「下田の方言」

母校下田中学校の学年同窓会が10月に市内のホテルで開催され、遠方在住者も声を掛け合い出席しました。
勿論、幹事は地元の友。会がたけなわになるにつれ、テーブルのあちら、こちらから、
下田方言の会話が聞こえてきました。「良く来たじゃあ」「元気けぇ」「もっと食わっせぇ」
「もっと飲まっせぇ」「○○へ寄ってけよー」「○○ずら」「ありがとさん」など、
地元の友人達が話しかけてくれる方言の会話が、楽しい笑いの渦巻きとなり盛り上がりました。
ぶっきらぼうな声の中に、情があって温かみのある言葉が、下田の方言だと思います。
とても新鮮な言葉にも聞こえました。下田から帰宅した数日後、SBSラジオで千葉県銚子の方言が放送されていました。
ラジオのボリュームを大にして聴いておりますと、下田の方言と似ていたのです。
「食わっせぇー」「気をつけてけぇらっせぇ」など、それを聴くやいなや、ラジオ局へ電話しました。
「伊豆でも銚子と同じ言葉で現在も会話しています」と…。例を上げ伝えましたところ、
その内容を放送して下さいました。同窓会での友達の声がまだ私の耳元に残っていましたので…。
各地を旅しますと、その土地の方との会話でいろいろ楽しいことがあります。
方言でもてなす人、方言のおもてなしを受ける人…とてもいいなあと思います。
ふる里、伊豆のことばの良さは、何でもない会話で笑顔になれたり、言葉を通じて、
心と心の触れ合いができたり、その事によって癒されるところにあると感じております。

これからも、伊豆の方一人一人が、お客様をお迎えする気持ちで話しかけて頂けたら幸いに思います。
「素敵で元気な伊豆に!」と願っております。過日、静岡駿府公園で伊豆急オモシロ駅長さんに出会いました。
伊豆をいっぱい宣伝してもらいたいですね。私もまた、天城越えや黒船電車で伊豆に行きます。


                               (静岡県葵区在住 渡邉かな江さん)



          
「伊豆は新しい発見や感動でいっぱい」

大阪から伊豆に行くと、関西から来たことを旅館の人や地元の人に少し珍しがられます。
でも私たち家族は実はもう年に何回も伊豆に足を運ぶその少し珍しい家族として、6年目になりました。
車でも新幹線でも行き、春夏秋冬の伊豆半島のそれぞれに新しい発見や感動をしていつも帰ります。
今回は9月の3連休、3度目の熱川です。息子は熱川にあるさくら坂のキャンドル作りが大好きで、
小さなキャンドルから中くらいのキャンドル、そして6歳の今年は一番大きなキャンドルを1時間かけて
あれやこれやと考えながら作るようになり、キャンドルの大きさに成長したことを感じました。
初めて黒根岩風呂に行くと、雑誌の取材がきてるよ〜っと先に入っていた老夫婦の奥さんがおしえてくれ
ました。一緒に海を見ながら、どちらからきたの、今夜のお宿は、なんて話しながら一番景色がいいスポ
ットを語ります。そう、ここでも大阪から来たことを不思議がられたかも。
でも、私たちは伊豆の海がダイヤモンドのように光ること、地元の食材の新鮮さに驚くこと、子供が喜ぶ
場所が多いことをたっくさん知っているから、そしてそのことを地元の人や同じように旅している人にお
しえてあげたくなって、感動を共有したくなって何度も来ているのかもしれないことに気付きました。
今日のお宿「望水」には無料のキッズスターというサービスがあり子供が大好きなカレーライスを夕食に
出していただけます。背が一番前で小食の我が子もお皿いっぱいのカレーをおかわりしました。
また、うれしいサービスを知っていることが増えて、稲取へ旅が続きました。

                                         (匿名希望)


               
「野に香る水仙の花」

昨年の震災後のある新聞に「観光客が減少した伊豆を元気にしよう!」の見出しに目が止まりました。
早速、私が入会しているサークルの人達との話し合いで一泊伊豆旅行計画が決定されました。
メンバー20名弱でしたが、夏の暑い日、下田まで行きました。稲取、河津、白浜の海岸の美しい事!
柿崎では、吉田松陰像の前で記念撮影など、歴史に詳しいメンバーなので、
黒船に関しての話題で車中は盛り上がりました。お吉さんの話も色々とありました。
下田の街の中はお祭りも過ぎ、静かで観光客も少ない日でした。
いつもこの様な街かしらと思いながら散策して来ました。
昼食時、あるホテルに立ち寄りました。そこで帰り際、従業員のある人から「冬になったら咲きますように」と、
水仙の球根をもらいました。袋入りで説明書きもありました。
その球根から今、冷たい寒風の中で凛として花が咲いているのです。香りと共に!
メンバーで初老の社長さんは「下田の水仙が咲きましたよ」とクリスマスの日、ご自分の携帯で撮ったと、
とても嬉しそうに見せて下さいました。
そして、「今度は下田へゆっくり行って来ますよ」と、またあるメンバーは
「庭に植えた球根がもうじき咲きそうだよ。咲いたら見に来てね」などなど、
我家も、かわいい水仙の花が咲き散歩中の近所の方々が足を止め見て行かれます。
たった数個の水仙の球根がこんなにも人の心を引きつけ、心を癒してくれているのだと感心しております。
今や、水仙は「下田」「爪木崎」の代名詞となっていると思います。
地元市民にとっては何でもない花になっているかも知れませんが、所変われば人変わるのごとく、
一輪の花に想いを寄せる人達がいることを忘れないでほしいと思います。
そして、もし下田に水仙の球根があるようでしたら、見物に行った方々に少しでもお渡しいただけたらいいなと思います。
私も国内各地や海外に旅しておりますが、やはり笑顔で接客や対応をして下さいますと旅も一層楽しくなりますし、
思い出も深くなります。そして再び、その土地へ行きたくなります。
下田の皆様も下田の方言でまた私達を迎えて下さい。
「また来らっせー。待ってんよー」とてもいい言葉ですから…。
「三百万本の花がゆれる早春の岬」のキャッチフレーズ、昨年秋に公園でチラシをもらい、
今も手元に置いてあります。私も皆に声掛けしております。まとまりのない文で失礼致します。


                                            (静岡県葵区在住 渡邉かな江さん)


          
 「お礼はさくらに」

昨年の「みなみの桜と菜の花まつり」に行った時の事です。
青野川のベンチでひと休みしている時に横浜から桜を見に来たという老夫婦と隣り合わせになりました。

「来年の桜は見られないかもしれないから」とおっしゃって、
見事に咲いた桜を仲良くじっと見ていらっしゃいました。
「それではお先に」と私は立ち上がり、その場を去りました。

それから1時間位した頃でしょうか、「もしもしお忘れものですよ」と、
先程お会いしたお二人に紙袋を渡されました。
それは、私がみやげ用に買った金目鯛の干物でした。
私は忘れ物をしたことなど全く気づかず、呑気に花見をしていました。

「ありがとうございます。お陰様で私の手元にもどってきました」このご夫婦は、
杖をつきながら1時間近くも私をさがしてくれたのです
。私は鼻の奥がツンとして涙が出そうになりました。
「失礼ですが、お名前は?」とお聞きすると、「一期一会も何かのご縁、
お礼は
“桜”に言って下さい」と言い置き、肩を並べて帰って行かれました。
今年もまた桜の季節が巡ってきます。

咲き盛る花の下で、あのお二人にまた逢えますように…。

                                            (下田市在住 中川洋子さん)


             「忘れられない言葉」

以前、お客様より頂いたコメントでの忘れられない感動エピソードがあります。
施設も年数が経ち老朽化してきている中、「建物の古さ、新しさではない。
そこにいるスタッフの心からのサービスやお出迎え、笑顔があるから必ず下田に来ています。」
というコメントを頂いた時に感動して泣きました。
サービスしている私達が、お客様からの温かい思いやりから、
感動と人の心を動かすものはやはり人なのだと教えられた忘れられない大事なエピソードです。
それを胸に、いつも、お客様に感動を与えられるようなサービスを目指して頑張っています!


                                           (下田市在住 匿名希望)


               
「思いがけないサービス」

下田のフジワラ商店さんでの何年か前の出来事です。みかんを買いにお店に行くと、
一袋100円のみかんを何袋か買いました。

レジ袋を持参していたので、応対してくれた店主のおばあさんに、
「袋は持って来たからいりません」と言ったところ、おばあさんが「袋いらないならこれ持ってきな」と、
みかんを一袋おまけして、袋の中へ入れてくれたのです。
私はびっくりしたものの「えー?いいんですか、すみません」と有難くいただいたのですが、
みかん一個でも十分なくらいなのに、そのおばあさんの行為に、個人商店ならではのサービスに、
とても嬉しくなったと同時に、何だか「頑張ろう!」そんな気持ちになりました。

今も時々買い物に行き、ご夫婦のお元気そうな姿を見て、ほっとしている私です。

                             (下田市在住 佐生綾子さん)


            「今日はいらないよ」

下田の河内にある、こうじやさんでの昨年の出来事です。
買い物をしていると、一人のおばあさんが後から入って来て、買い物を始めました。
そのおばあさんが、食パンの袋をカゴに入れた時、お店のおばさんが
「○○さん、それ昨日買ったから、まだあるはず。今日はいらないよ」と、言いました。

すると、そのおばあさんは「そうだったかしら、わからなくなっちゃった」と言って、パンをあった所にもどしました。
そして私に向かって「この人ね、私が一人暮らしだから色々心配してくれてね。
私が何を買って行ったかまで覚えていてくれるのよ」と嬉しそうに話してくれました。

そのやりとりの現場に居合わせた事を幸せに感じたと同時に、お店の繁盛を秘かに願って出て来ました。

                                      (下田市在住 佐生綾子さん)


              
「三島由紀夫が取り持つ縁」

私は投稿が好きで、伊豆新聞によく投稿をしているのですが、昨年の暮れに三島由紀夫の事で、
投稿して掲載されたその日に、下田市三丁目の青島床屋さんのご主人から、
「三島由紀夫に関する良い資料があるので、良かったら取りに来ませんか?」
という主旨の内容のお電話をいただきました。夕方近くにお店にうかがうと、
「三島由紀夫と下田東急ホテル 前田 實」と表紙に書かれた冊子を下さったのです。
それから、三島由紀夫の散髪をご主人がした際に使ったハサミや櫛が入った額を見せていただいたり、
三島由紀夫と実際に交わした会話の内容を教えていただいたり…。

生前の三島由紀夫を実際に目で見た方のお話は、本当に貴重だと思いながら、
初対面のご主人と、とても有意義な時間を過ごさせていただき感謝でした。

私がチョット咳こんだところ、奥様が奥からお茶を入れて来てくださり、とても美味しく感じられました。

                         (下田市在住 佐生綾子さん)


        「節電コンクール」から「みんなのひろば」

踊り子号は下田・伊豆南の代名詞、計画停電により「伊豆は車も電車も不通のイメージ」
昨年4月23日計画停電後、踊り子号が再開運行となりました。
伊豆急下田駅には100人ほどのお客様が踊り子号でお見えになったものの、
当地の来客は目を覆うばかりでした。(お客が来ない。3.11二次災害です。)
そこで急遽「節電コンクールを行い、優秀者を対象に座談会を開催した時のことです。
節電コンクールの目的は 下田に来てね!と 小さい力だけど東北支援! 1回目7月14日座談会、
2回目8月9日、年度総括12月19日は石井市長を囲んで3度の座談会

1回目は2回に分けて、通算4度を行いました。
「無理せず楽しんでエコ生活・・観光の町下田に多くのお客さんが来て活気が戻る夏を迎えたいです」
と結ばれた山下さんの奥さん、子供4人は一つの部屋でテレビや勉強=会話が増えたお風呂は連続追い炊きナシ、
掃除機やめて箒=ダイエット乾燥機使わず=天気のよい日まとめて、これからLED

「皆が少しずつ努力すれば皆が助かる、家族皆が笑える幸せな生活を頑張りたい、
そして、日本全員が心から安心できる生活になりますように。」と結ばれた田中さんの奥さん、
家族皆が楽しく節電を心掛けているのでストレスよりもやりがいを感じ楽しんでいると、
また家族全員早寝早起き元気で良いことずくめとも言われました。

「人間ばかりでなく、飼っている金魚にも協力させよう、と百匹の金魚にエアーポンプの送り一時停波、
段々慣らした。」と南伊豆の星さん(12月の段階でも1匹も落伍者ナシ、且つ12月座談会にお見えの星さんの手には
「豆炭あんか」平均継続50%減とも)参加者に共通していたことは 
他人事にしない、参加意識を持つ、行動する。ことでした。
延べ20数名のご意見は互いに工夫しようと話が広がり、南伊豆のお母さん「私は主人と二人暮らし、

冷蔵庫勿体無いので捨てずに3台使っていました。工夫して1台だけにしました。」
すると参加者の方から「あと2台の冷蔵庫はペットボトルの水を凍らせて電気を入れない冷蔵庫に入れれば
野菜程度は有効な保冷庫になりますよ。」と、見える努力と見えない努力、
おそらく日本中でこの小さな努力が折り重なるようにして繰り広げられた震災後の10ヶ月であったのではと思います。

昨年末には東京・荒川で60年余銭湯を営んでいた栄湯の奥さんが私どもの「みんなの広場」
(昭和レトロ無料お休み処)に立ち寄られて、銭湯を廃業したのですが、銭湯で使っていた
「大きな掛け時計」を飾るようにと送って下さいました。

丁寧に梱包された身の丈ほどの時計、梱包を解くと、中からは荒川で銭湯に浸かった方々のぬくもりが漂い、
「時計を見にたびたび寄りますよ。」と言われた酒井照子さんの「頑張りな・・」と背中を押してくれる声が聞こえました。

お休み処には友人、土屋満男君の書(昨年3月書)「大震災によせて 絆」が表装されて(折しも昨年の漢字「絆」)
私達を見つめています。


                                        (小林テレビ設備 渡辺良平社長)


             『2人の夢と下田のお返しに感動』

2017年6月25日、東京の教会で婚約式があり、私もお祝いに駆けつけた。
主役のお二人は下田市在住の方。
男性は下田生まれ下田育ち。喫茶店の経営者。
女性は1年半くらい前に東京から下田に移住。
私は一回り以上歳の離れた彼女と下田の教会で知り合い、会ってお話しする中で、
自分は結婚するつもりはないと、熱く語っていた。
夢は自分の喫茶店を開く事。
だから今回婚約すると聞いて驚いた。
相手の仕事も自分の夢が叶う職業。
彼女は「このために移住したのかもしれない」と運命を語っていた。
婚約式後、ちょっとしたプレゼントを渡すと
「私からもお返しが…」
と渡されたのが「ロロ黒船」の包み。
上京して半年の私は思わず
「懐かしい…」
と言っていた。
これを機にしっかり『下田市』を宣伝している二人に感動しました。
末長くお幸せに



                              (下田市在住 佐生綾子さん)


             
『クリスマスイブに思うこと』

2016年12月11日沼津ヴェルデで行われていた「『勇気の証言ーホロコースト展』アンネ・フランクと杉原千畝の選択』」
を見て感動した。
これを見て、改めて『アンネの日記』の凄さを知った。
今年の自分へのクリスマスプレゼントに『アンネの日記』を買うことにした。

エリー・ヴィーセル(ユダヤ人作家)の言葉に感銘を受けた。《現在の最も大きな悪は無関心です。
知っていながらも活動しないことはそういう不正に同意するのと同じです。
地球は非常に小さな場所になりました。他の国で起こることがわたしたちにすぐはね返ってくるのです。》

昨年の11月に同じ場所で「杉原千畝と命のビザ」で杉原千畝を知り、感銘を受けた。
その日の夜息子から電話があり杉原千畝の事を話すと知っていたので驚いた。
下田高校在学中に世界史の先生に教わったと…。
その先生が転勤してしまい、その後同じ高校に入った娘は知らなかった。
映画上映を心待ちにしていて今年1月に『杉原千畝』を娘と観た。
その映画の中でもナチスドイツの残虐さに涙し、杉原千畝の本も何冊か購入した。

私は今、奇しくも『チャップリンとヒトラー』大野裕之(著)を読んでいた。

《1889年4月――
20世紀の世界で、もっとも愛された男ともっとも憎まれた男が、
わずか4日違いで誕生した。
やがて、2人の才能と思想は、歴史の流れの中で、
巨大なうねりとなって激突する。
知られざる資料を駆使し、映画『独裁者』をめぐるメディア戦争の実相をスリリングに描く!》
この本の中で1番感動したのは、「『独裁者』の結びの演説」
《申し訳ない。私は皇帝なんかにはなりたくない。そんなのは私のやることじゃない。
誰かを支配したり征服もしたくない。できれば、ユダヤ人にしろキリスト教徒にしろ、黒人にしろ白人にしろ、
みんなを助けたいと思っている。
私たちはみんな、お互いを助けたいと望んでいる。人間とはそういうものだ。
他人の不幸によってではなく、お互いの幸福で支えあって生きていきたい。
私たちは、お互いを憎んだり軽蔑したりしたくはない。
この世界には一人ひとりのための場所があるんだ。
そして、良き大地は豊かでみんなに恵みを与えてくれる。
(中略)
兵士たちよ!隷属のためにではなく、自由のために戦おう!
「神の国はあなた方のうちにある」と『ルカ伝』17章に書いてある。
それは一人の人や、一つの集団ではなく、すべての人々、みんなのうちにあるんだ!(後略)》

今日はクリスマスイブ。
経済至上主義の象徴のような東京のクリスマス。
疑問視しながら街を歩いた。
今年は自分なりに無関心な人間にはなりたくないと思って生活した。
来年もそうありたい。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)


               
『ゴッホに共感し』

私は年に何回か届く上原近代美術館からの書簡を楽しみにしている。
今回はそれを東京で受け取った。
下田の家に送られて来たのを、叔母の家に送ってもらったからだ。
今開催中の『冬の情景そして春へ』見に行きたいと思った。がすぐ行けず残念に思った。
今私は叔母の介護のため東京にいる。
2016年ももう12月…
私にとって今年は『ゴッホ』の年だったと言っても過言ではないかもしれない。
上原近代美術館『はじまりの絵画』でゴッホの「鎌で刈る人(ミレーによる)」を観た。
ゴッホの画家としての始まりを知った。
農民に焦点をあてた作品が多い画家であった事を知り、興味を持ち『ゴッホを旅する』千足伸行(著)を買った。
その帯に書かれた
《人間として、画家として――善意の人、敬虔なプロテスタント、弱者に寄り添うヒューマニスト、オランダ伝統の清教徒、
情熱的な理想主義者…》
「弱者に寄り添う…」を読み、一気にゴッホが好きになった。
10月10日に下田市民文化会館で、の講演を聴けた事もとても嬉しい事だった。
《オランダより画家ゴッホの世界的研究者であるシュラール・ファン・ヒューフテンさんをお招きして、講演会を開催しました。
ヒューフテンさんは、当館が収蔵するゴッホ〈鎌で刈る人(ミレーによる)〉を再発見してくださいました。
そうしたご縁から今回、下田での講演を行っていただくことになりました。》
(上原近代美術館だより)より

ゴッホは自分の絵から「静けさや癒やしを感じて欲しい」と思っていたと知った。
自然に対する情熱が大きな人、に共感した。

東京にいる事が好機となり、東京都美術館での『ゴッホとゴーギャン展』も鑑賞した。
平日だというのに凄い人だった。
私は上原近代美術館は自然に囲まれ静寂の中で鑑賞できる事が気に入っている。
上原近代美術館所蔵の絵も2つ飾られている事が、下田市民として誇らしく感じた。
クロード・モネ《藁ぶき屋根の家》
カミーユ・ピサロ《エラニーの牧場》
会場を後にしようとした時、テーブルの上に『はじまりの絵画』のチラシが沢山置かれているのを見た。
これをもらって何人の人が下田を訪れてくれただろうか…
考えると嬉しくなった。

ゴッホの「鎌で刈る人」が下田にある事が、本当に凄い事だと知った年でもあった。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



               
『50年後の恩返し』

「唐人お吉」と呼ばれた女性のお墓がある宝福寺というお寺を訪ねた時のこと。
お寺のご住職と話をしていると、ご住職を訪ね、年配の男性が訪ねてきました。
社会的地位があるであろうと推測される、とても品のいい紳士でした。
その方のお話によると、50年前、学生の頃、仲間と共に下田を訪れた際に
この宝福寺に泊めて頂いたそうです。
お金もなかった学生の頃、それは貧乏旅行と呼べるものだったといいます。
泊めて頂いた翌日の朝、今のご住職のお母さまが、お金を封筒に入れ、仲間一人一人
に手渡したそうです。その紳士は、その事が50年間忘れられず、宝福寺を訪ねたのです。
お母さまが十数年前に亡くなられた事を聞くと、その紳士は涙ぐみ、
「これをご仏前にお供えください」と、きれいに包んだお金をご住職に渡されました。
時間にして、わずか数分の出来事でしたが、私の胸は熱くなりました。
そこに居合わせた幸せに感謝しました。
その方は恐らく、お母さまから受けたご恩をしっかりと胸に刻み、50年生きてきたに違いありません。
もしかしたら、この時の経験から、困った人には手を差し伸べる人になったかもしれません。
立派ないでたちの紳士の姿からは、そんな人生が垣間見えました。
人は人生において、たとえ一瞬でも、たった一言でも、その人の人生を変えるほどの出会いがあります。
この宝福寺には、お吉さんが物乞いの群れに入った晩年、当時のご住職の奥様「おうめ」さんが、
毎日「おにぎり」を握って、お寺を訪れるお吉さんに渡していたという伝承が残っています。
おうめさんの次の次にあたるご住職の奥様が、学生に施しをしたお母さまです。
自然に「施す」ことが出来る心が、このお寺には伝わっています。

                              (下田市在住 石垣直樹)


             
『三つ子の魂百までの重要性』

佳作をいただいた文章が本に載り、とても嬉しかった。

『文芸思潮』2016年夏号第64号

題は
『三つ子の魂百までの重要性』
5月25日に編集長から
「貴重なご経験からの御提言、その通りと深く共感しました。いい、有益なエッセイと思います。
近いうちに校正ゲラをお送りしますので、校正のほどよろしくお願いします。」

とメールをいただいた。

私は今、保育園で働いている。

7月になり出来上がった本が送られて来た。

内容は題名の通り『三つ子の魂百まで』の重要性を共感した書物を引用して論じているが、
内容を少しご紹介…

《(前略)「待機児童をゼロにする」
という政策も、私には「子供を母親からどんどん引き離す」政策
と聞こえて来て、疑問を感じる日々だ。
目先の利益しか見ていない愚考としか思えず、その上出生率アップをも目標としていることにも矛盾を感じずにはいられない。
「子は宝」―
確かにそうだと思うが、現実はそこからどんどん遠ざかっている我が国の現状に、悲しみを覚える。

聖書の中に〈あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです〉
と書かれているが、そうではないと思わされることも多々ある。
(中略)
私はこの子達の言葉にできない気持ちに寄り添い伝えることに使命を感じるようになった。
(中略)
私達は、経済至上主義の中で、大切な物を沢山失っていることに、もっと真剣に目を向けなければならない
と思う。
最近亡くなられた童話作家松谷みよ子さんの言葉
「真実から目を離さない」
を病院の待合室のテレビで知り、私もそうありたいと思った。》

このエッセイに引用できなかったがここで引用したい文章がある。
『ベニシアの言葉の宝箱』
の中の
《「赤ちゃんからのメッセージ」
私は、あなたを母として、数カ月前に生まれてきたばかりです。
お腹の中にいる時から、早くお母さんに会いたいと、
毎日思っていました。お母さんの愛情と優しさが、
二人を結び付けていることを片時も忘れたことはありません。
二人はいつも一緒。
私は、お母さんが傍にいないと、
不安と孤独で探してしまいます。

お母さん、もう少し私の傍にいてください。
お母さんが心静かに穏やかでいてくれるだけで、
私は喜びに満たされるのです。
お母さんの腕に抱かれて、
おっぱいを飲んでいる時が一番の幸せです。

人生最初の3年間、愛情をもって導き育ててくれることで、
私はこの世で必要なほとんど全てのことを知り、
学ぶことができるのです。

[この命を授けてもらったことを、感謝しています。]

揺りかごで覚えたことは墓場まで。(フランスの諺)》

《人類の歴史という視点から見れば、0、1、2歳の乳幼児を、親が知らない人に違和感なく預けられる
ようになったとき、人間は大切な一線を越えてしまったのかもしれない、と時々不安になります。
絆の始まりは、親が絶対的弱者である自分の子どもを命がけで守ることだったのではないのか…。》

『なぜわたしたちは0歳児を授かるのか  親心の幸福論』
松居  和(著) 

子どもを早くから手放す事が、将来どのような不利益を生むのか… 

真剣に考えて欲しい。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)


          
『川端康成学会第43回大会』に参加して

2016年6月18日伊豆市役所天城湯ケ島支所で行われた『川端康成学会第43回大会』に参加した。

内容は…
小説「伊豆の踊子」を執筆した宿・湯本館の土屋晃社長と鶴見大の片山倫太郎教授が「川端康成と湯ケ島」
をテーマに対談。
国学院大の石川則夫教授の「川端文学の源流・湯ケ島での言葉」の講演。

約3時間程の時間、川端康成の世界に浸かり、とても有意義な時間を過ごし、多々感動した。
文学と伊豆の関わりの素晴らしさを改めて感じ伊豆の歴史を知る時となった。

私の後ろに座られていた方が、大学教授で名刺を戴くと「博士」と書かれていて驚いた。
姫路市からいらしたらしい。
「私は下田から来ましたが、最近山本周五郎がよく泊まっていた宿が、閉館してしまい残念です。」
と話しかけると、
「山本周五郎先生も素晴らしい方ですね…。明日は下田に行く予定なので、楽しみです。」
との事だった。

昨年11月には河津湯ヶ野温泉での文学碑建立50周年記念
『伊豆の踊子文学祭』で献花した。
私が生まれる前年に建立された事を知り、感慨深かった。
「福田屋」で川端康成が泊まっていた部屋も見学した。
展示室はとても興味深かった。

学会の会場で買い求めた『伊豆の旅』をワクワクしながら読み始めて間もなく、
「無税の町があったり…」
の記述が気になり調べてみると、下田市の白浜の事だと知った。
《その昔、日本最大の天草産地の一つとして名を馳せていた。
豊かな海の恵みのおかげで、当時の白浜村は無税、小学校も自己財源で建設、学費も無料とは伝説のような本当の話です。》

古き良き時代を想像した。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



              
「あじさい祭りに感動して」

2016年6月、はじめて下田公園の「あじさい祭り」に行った。
下田に移住してもう14年くらい経つというのに…
想像以上に素晴らしく、感動!来て見て良かったと思った。

子供達が下田にいるうちに一度は連れて来ればよかったと、後悔した。
息子は一昨年、そして娘は今年下田を出てしまった。

教会で知り合った下田へ移住したばかりの若いTさんと行った。
彼女も、「これは素晴らしい!」と、とても感動していた。

日本写真の開拓者「下岡蓮杖」の昭和3年に建立された「下岡蓮杖翁顕彰碑」も初めて見て感動した。
と同時、あの苦い思い出が頭に蘇った。

それは2014年の読売新聞の記事を見た時の事…

《明治7(1874)年、50歳を過ぎた下岡蓮杖は、横浜でキリスト教の洗礼を受けた。
明治政府によってキリシタン禁制の高札が撤去された翌年のことである。
蓮杖がクリスチャンとなった理由は不明だが、交流した外国人の中に複数の宣教師がいたこと、
またそのうちの一人が最初の妻・美津を診察した宣教医・ヘボンだったことが考えられる。
描かれているのは、使徒たちと最後の晩餐を終え、オリーヴ山(ゲッセマネ)で祈りを捧げるキリストである。
キリスト教絵画では伝統的な主題として知られる。本作には原図がある。
ニューヨークのリヴァーサイド教会にあるハインリッヒ・ホフマンの「ゲッセマネのキリスト」である。
油彩画の原図と比較すると、蓮杖は日本の画材を用いて、やや日本風に翻案されたキリストと風景を描いている。
亡くなるまで敬虔なクリスチャンだった蓮杖の素朴な信仰を物語る好例と言えよう。》
(静岡県立美術館学芸員  南美幸)

この記事を読む約1ヶ月前に、私と娘はアメリカの短大に留学していた息子の卒業式に出席する為にアメリカへ行った。
『世界平和を考える旅』として「9.11テロの現場」、ジョン・レノンが射殺された「ダコタハウス」、
そしてキング牧師が『I have a dream』の演説をした「リヴァーサイド教会」もコースに入れていた。
アメリカに行く前にこの事を知っていたなら…
原図が観られたかもしれないのに…
ショックだった。

Tさんが、ヘボンが創設した明治学院大学出身であるとその日に知り、偶然の一致に驚いた。

2016年7月5日の読売新聞記事を読み、ジョン・レノンがますます好きになった。
《湯川れい子さん80歳の新企画
(前略)66年のビートルズ来日時には、興行会社の計らいで、滞在先のホテルの部屋を訪ねた。
ポール・マッカートニーさんが飲み物を勧めてくれるなど歓待されたが、
ジョン・レノンだけは彼女の存在を無視したという。
「後に本人に尋ねたところ、『当時僕らの部屋を訪ねて来るのは皆権力者ばかり。
それにうんざりしていた。君もそうだと思った』と答えてくれた。
彼らを取り巻く状況を実感できる言葉だった」(後略)》

Tさんは海に魅せられて、下田へ移住したと言っていた。

ゴールデンウィークに息子が帰省した際、会社の秘書の方が下田に初めて来て、案内役をした。

後日、「下田の印象はどうだったのかな?」とメールしてみると、
「だいぶ気に入ったらしい。あの海は誰が見てもきれいでしょ!」
と返事が来て嬉しく思った。

《知恵は町の十人の権力者よりも知恵者を力づける。》(聖書)




                              (下田市在住 佐生綾子さん)



             
「無私の日本人」

2016年5月のある日、三島で映画
『殿、利息でござる!』
を見て、とても感動した。

原作本は『無私の日本人』磯田道史(著)。
その中の一編「穀田屋十三郎」。が映画化された。
(この話しは東北仙台近郊の貧しい宿場町で起きた感動の実話がもと。)
この本を、私は4年程前に購入し、「伊豆新聞」に投稿していた。

《国の運命背負う使命感を持って
最近、日本の政治家は「本当に国のこと、国民のことを考えて仕事をしている人がいるのだろうか?」と思います。
どうも私利私欲のため政治家になっている人が多いように感じています。
全国紙で紹介されていた本「無私の日本人」(磯田道史著)で、下田出身の「中根東里」が紹介されているのを知り、
取り寄せて読みました。
帯には「ほんとうに大きな人間というのは、世間的に偉くならずとも金を儲(もう)けずとも、ほんの少しでもいい、
濁ったたものを清らかなほうにかえる浄化の力を宿らせた人である」と書かれていて、
それを読んだだけでもこの本を買った意義があると思えました。
「中根は詩文の才に超絶していた。ふつうの道を歩んでおれば、この国屈指の大詩人としてわれわれの
記憶にとどめられていたはずである」。そうならなかったことをとても残念に思います。
「そもそもこの天才児がこの世に生まれ落ちたのも、ほんの偶然といったほうがよいかもしれぬ。
生まれたのは―伊豆の下田であった。この下田というところは滑稽といっていいほど、ありとあらゆるものが漂着してくる。
(中略)人間も流れ着いてくるらしい」。
 この箇所を読み、自分も漂着した一人であることがとてもおかしく思えました。
「政治を志す人は、国の運命を一身に背負っているという過剰なまでの使命感を持つことだ」。
今日(11月24日)の全国紙に書いてありました。》
(2012年12月2日掲載)
映画化されたのが「中根東里」ではなく残念だが、子孫が暮らしやすい世の中にする為に、命がけでしくみ作りを
した人々の物語を一人でも多くの人に見てもらいたいと思った。

「地方創生」には、知恵が必要だ。と改めて考えさせられた。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



          
「鈴木まもる鳥の巣ワールド」にて

2016年5月三島市のギャラリー善に『鈴木まもる鳥の巣ワールド』を観に行った。

鈴木まもるさんが会場にいらして、羊毛で鳥が作った巣をケースをはずして触らせていただけた。
私は
「あらえびす賞受賞おめでとうございます。あれは野村胡堂の賞ですよね…。」
とお話ししてみた。
「そうですね…私はよくわからないのですが…」

私は作家松田瓊子の父として知っていた。
以前『七つの蕾』を買い求めた際帯に
《皇后美智子さま青春の愛読書
美智子皇后が学生時代に愛読され、後年には作者の父、野村胡堂に手紙を出されてまで探し求められた幻の名作。
23歳で世を去った作者が描く、少年少女たちの織りなす美しい世界。》とあった。

《胡堂は、静岡県の伊東にある別荘で、『銭形平次捕物控』を執筆していました。…》と調べて知った。

「私は今保育園に勤めていて、いつも絵本を寄贈して戴き、ありがとうございます。」
とお礼を言うと。
「下田は予算が無いですからね…。新庁舎に図書館が一緒に出来るといいながらその新庁舎がなかなかできないし。」

鈴木まもるさんは下田市への移住の大先輩だが、私も移住して一番ショックだったのが、
図書整備に力を入れていない自治体だと思った事だった。

「市長選どうなるでしょうね…」
「討論会行きたいですが、その日は搬出の日で行けるかな…」そんなお話しもした。

『Blue Sky』鳥の巣の中に地球が入っていて、鳥が守っている絵に感動した。

新聞記事に書かれた言葉
「鳥は誰にも教わらず新しい生命を育てるため美しい巣を作る。なぜものを作るのかという根源的なことを教えてくれる」
にも、とても感動した。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



             
「ほんの樹」

2016年4月のある日、三島市にある楽寿園に行った。
目的は「ほんの樹」。

4月22日の伊豆新聞の記事
《自作の絵本150冊寄贈
下田市加増野の絵本作家鈴木まもるさんがこのほど、市に自身の絵本150冊を寄贈した。》
を読み感動した直後、目を左に移し、見た記事に一瞬目を疑った。
《楽寿園では、園内で自由に持ち出して読書が楽しめる図書コーナー「ほんの樹」をお披露目。
プロデュースしたブックディレクター幅允孝さんがトークセッションに参加し、
人生を変える一冊との出合い方などについて話す。…》

幅允孝さんは、私が今一番気になる人でもあったからだ。
本を買って読み、「ブックディレクター」という仕事に魅力を感じた。
2月に東京へ行く用事の帰りに、新宿伊勢丹の中の幅さんがプロデュースした本棚を見てきた。
その後、「ブルックリンパーラー新宿」へも行き、幅さんがプロデュースした本棚の中に、
『銀の匙』中勘助(著)を見つけ、とても嬉しかった。
さすがだと思った。

残念ながら、トークセッションの日には行けず、幅さんにお会いする事は出来なかったが、
「ほんの樹」を見て、その発想力に感心した。
とても素晴らしいと思った。

「ほんの樹」には色とりどりのバスケットがぶら下がっていて、テーマごとに3冊づつ本が入っている。

いろいろある中で、私は「大岡信はすごい!」が気に入った。大岡信氏は三島市出身の作家で、
三島駅側に『大岡信ことば館』がある。
そこもとても素敵な場所だ。

『本の声を聴け  ブックディレクター幅允孝の仕事』高瀬毅(著)の中の
《本と人が出会う場をつくる。それが幅の仕事の目的だが、幅自身も、本との出会いを常に求めている。
それには、本屋に直接出かけて行くことであり、棚の前に立って、本を手に取り、ページをめくることなのだ。》
を読み、素敵な仕事だと思った。




                              (下田市在住 佐生綾子さん)



             
「地球環境の大切さ思う」

先月4日本紙下田賀茂版の「下田市箕作、高橋養蜂(高橋鉄兵社長)はオリジナルのミカン花の蜂蜜と
蜜ろうを使ったリップクリーム『ハニー・リップ・バーム』を発売した」の記事中にあった「アインシュタインの
『蜜蜂がいなくなると人間は滅ぶ』という言葉を知り、養蜂を知りたいと群馬県富岡市で学んだ」
にとても感動し応援したいと思い、私はその日のうちに、リップクリームとほかの商品を買い求めた。
蜂が減り続けている問題は、だいぶ前から世界中で警告されていて、私もとても気掛かりだった。
農薬が主な原因の一つとも言われているが、私の尊敬するハーブ研究家ベニシアさんが
「携帯電話などの電波が、蜂を混乱させ巣に帰れなくしている可能性を知り、私は携帯を持つのをやめた」
ことを知り、感銘を受けるも、自分が携帯を手放せないことを憂いもした。
でも人間が便利な生活を享受するために、自然環境を破壊し続けている、現状の愚かさを日々実感し、
便利な物事に慎重でありたいとも思っている。
職場の保育園で、「すぎのこ劇団」の人形劇「とべドードー!」を見て、あらためて考えさせられた。
幼いころから地球環境を考えさせることは、とても大切だと思った。》

掲載日の何日後だったかに、伊豆新聞の方からお電話をいただき、「高橋養蜂さんが投稿を見て、
新商品のリップができたから届けてくれたので、取りに来られますか?それとも届けましょうか?」
私は取りに行き、家に帰りお礼の電話をした。
「あの投稿を見て、持って来て知らせてくれた方がいて、とても嬉しく思いました。
あなたのような方に蜂蜜を食べて欲しいです。
今、ブルーベリー畑も整備しているので、よかったら見学に来てください。」
そんな主旨の話しをしていただき、私もとても嬉しく思いました。

4月23日に職場の保育園の先生2人と、防護服も着て、間近で見学させていただき、感動しました。
とても大変そうすが、貴重なお仕事だと思います。
私も養蜂という自然を相手にする仕事にとても魅力を感じました。

「あの投稿が本当に嬉しくて…」
と、この日も言っていただき、書く事への情熱を改めて感じました。

お土産に「サクラの蜂蜜」と、お母さんが作った「お芋のジャム」をいただき、感激しました。
お母さんが作った、「たけのことわさびの茎のいなり寿司」もとても美味しくいただきました。

価値観が同じ人との出会いに感謝しました。

私も蜂蜜にとても興味が湧いたので、『ひとさじのはちみつ』前田京子(著)を取り寄せました。
その中に書かれていた
「ひとつの公害汚染をどう解決するかを論じることは、
慢性の病気の根元が化膿し続けているのに、
対処療法をしているようなものなのです。」
福岡正信『わら一本の革命』

を読み感銘を受け、自然農法家・故 福岡正信氏にも興味を持ちました。

高橋養蜂さんに行った後、「ナンズ・ヴィレッジ」でランチを食べ、とても美味しかったです。
「なんだかここだけ下田じゃないみたいだね…。」
と言った先生の言葉に共感しました。




                              (下田市在住 佐生綾子さん)



      「世界で一番貧しい大統領に学ぶ」

私は職場の稲生沢保育園の27年度の「卒園文集」に『おくることば』として
《ゆり組のみなさんごそつえんおめでとうございます。
わたしは本をよむことがだいすきです。
さいきんよんだ絵本でとても心にのこっている本があります。
『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』という絵本で、そのなかにかいてあった
「貧乏とは少ししか持っていないことではなく、無限に欲があり、いくらあっても満足しないことです。」
がとても心にのこりました。
ごはんをたべるとからだのえいように、本をよむと心のえいようになります。
本をたくさんよんでくださいね。》
と書きました。その後、何人もの先生にその事で声をかけていただき、嬉しく思いました。

そしてそれを書いた何日後かに、そのウルグアイの大統領だったホセ・ムヒカ氏の来日を新聞で知り、
そのタイミングに驚きました。
調べてみると
「2016年4月5日〜12日初めて日本訪問『本当の幸せについて、日本の人びとがどんなことを感じているか、
理解を深めたい』と私人としての来日が実現」を知り、感動しました。

4月7日16:30〜東京外国語大学での講演があり行きたかったですが、残念です。
4月8日19:00〜フジテレビ「世界でいちばん貧しい大統領ムヒカ来日緊急特番〜日本は本当に幸せですか?〜」
一人でも多くの人に見て欲しいと思います。

スピーチついでに、私が下田高校の娘の卒業式にさせていただいたスピーチ、『感謝の言葉』を紹介させていただきます。
【わたくしは3年前、稲生沢中学校で女性として初めてPTA会長をさせていただいた際、卒業式の祝辞に先生方への
「感謝の言葉」を入れずに構成してしまった事を後に悔いておりましたので、今日この様な役目を
「他にもっと適任の方がいるのに…」との思いもありながら引き受けさせていただきました。
あっという間の3年間でしたが、今日こうして晴れて卒業の日を迎えられました事、心から感謝申し上げます。
娘が入学して携帯を「持ちたい」「いらない」と言い争ったのが、ついこの間の様に感じます。
わたくしが今の高校の先生方が本当に大変だと思わされた事は、学級懇談会で父兄から「スマフォに夢中で勉強しない」
とか「夜遅くまでスマフォをやっている様だ」等の悩みが多く語られる事でした。
その当時、スマフォを持たせていなかった親としては、「当然の結果なのに…」と内心思いながら言いにくい事も
言わせていただきました。
案の定、世間ではスマフォを介した様々な事件が起こり日々憂いを感じています。
スマフォは確か娘の4つ上の兄が本校を卒業する頃に出現して、どんどん子育てしにくい世の中になると思いました。
ここで歌人・俵万智さんの短歌を一つご紹介します。
「トロウという字を尋ねれば『セイトのトクロウのロウ』とわけなく言えり」

わたくしは今でも学ぶ事が大好きです。先生はもっぱら新聞や本ですが。
ですから娘が持ち帰る『図書館だより』をとても楽しみにしていて、昨日娘が持ち帰った『図書館報』も一気に読みました。
今だから言えますが、娘がわたくしの為に本を借りて来てくれた事もありました。
最近読んだ資生堂名誉会長・福原義春氏の著者『美「みえないものをみるということ」』を引用させていただきます。
福原氏は経済界随一の読書家として知られている方です。
《「文明は文化を駆逐する」けだし名言である。
いま便利な機械が生活や仕事のあらゆる場面で活躍している。人間は初めのうちこそ、その便利さに感激し感謝もするが、
次第にそれがある生活が当たり前になり、もっと便利なものを、もっともっと楽ができるものを求めるようになる。
人間には怠け癖がつき、感性や創造性は確実に失われていく。
機械のほうが人間より優れているという錯覚に陥り頼り切ってしまう。》
とても共感させられました。
具体的に言うなら「スマフォの出現によって本を読まなくなった…」とも言えるでしょうか。
また、福原氏の著書『だから人は本を読む』の中で、フランス文学者・鹿島茂氏の言葉が紹介されていました。
《インターネットに蓄積されている記憶だけを頼って『本を読まない』ようになった人間の頭は空っぽで(笑)
与えられるものを享受するだけの存在になってしまうのです。》
考えさせられました。
わたくしは今まで『読書』を愛する者として、読み聞かせや発言する場が与えられた際、その事に重点を置いて発言してきました。
それが世の中を良くする事につながる…という信念があるからです。
「親の背中を見て育つ」わたくしが見せられた背中は本を読む背中かもしれません。
どんどん複雑化する世の中、先生方が余計な事に煩わされず、「本当に教えなければならない事」に集中できるようになる事
を願わずにはいられません。
その為には「教育の基本は家庭」の自覚がわたくし達父兄には必要だと思います。
『感謝の言葉』らしからぬ内容になってしまった気もいたしますが、最後に俵万智さんの言葉をお借りいたします。
「さまざまな師の魅力に導かれ、今の自分がある。
教育の原点はやっぱり先生。
優れた教材や制度があっても、先生がそれをどう教えるか。
何もなくても生徒の前に素晴らしい先生が一人立っているかどうか。それに尽きると思います」
素晴らしい先生方に恵まれ、3年間下田高校で子供達が生活できました事、父兄を代表して心より感謝申し上げます。

平成27年度卒業生父兄代表  佐生綾子】

ホセ・ムヒカ氏の来日を知り、『世界でいちばん貧しい大統領からきみへ』
を取り寄せて読み、感動しました。
《なかでも子ども時代はもっとも幸福な時期だ。
大人は子どもをせかさないでほしい。
子どもは遊んで、遊んで、遊んで、幸せにならないといけない。
知識、知識、知識、情報、情報、情報、と急いで与えないでほしい。

子どもはゆっくり育つべきなんだ。

いまは物をたくさんつくらないといけないから、
経済的に価値ある人材を作ろうとしている。
はやく稼げるようになる勉強ばかりさせて、
子ども時代を台無しにしている。
そして、8歳や9歳で小さい大人のような子どもを期待している。

しかし、
子どものときをたっぷり生きてこそ、
智恵と人格のある大人になれるんだ。》
とても共感させられました。

《給料の大半を貧しい人のために寄付し、大統領の公邸にはすまず、町からはなれた農場で奥さんとくらしています。
花や野菜を作り、運転手つきの立派な車に乗るかわりに古びた愛車を自分で運転して、大統領の仕事に向かいます。》
「世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ」より



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



   「倉本聰さんの価値観に共感〜震災から5年目の朝に思う〜」

確か私達家族が下田に移住した年に大好きだった倉本聰さんのドラマ『北の国から』が終わってしまった。
最後となる「遺言」を移住したばかりの家で家族で見て、とても感動した。

あれからもう10年以上の月日が、経っている事に、改めて月日の流れる速さを思った。
その後も著書などで倉本聰さんの価値観を追って、読む度に共感させられた。

2010年4月6日の「読売新聞  気流欄」
《塾には「原始の日」があったという。その日は電気もガスも使えない。焚き火のパーティーでは塾生の各班
に生きた鶏をあてがい、調理させた。
脚本家の倉本聰さんが私財を投じて北海道富良野市に開いた「富良野塾」である。自分でシメるんですか!
倉本さんの随筆集『左岸より』(理論社刊)によれば、当初、塾生たちは生きた鶏に恐慌をきたしたらしい。
塾生が浴びた倉本さんの言葉を。「シメル。血抜きをし、毛をむしり、ケツから手を入れて内臓を取り出す。
残酷だなんて逃げるな。その作業をいつも誰かがやってくれていたんだ。食うだけ食っといて残酷だなんて言うな。
罪の意識にさいなまれたら祈れ。こういう時のために神様はいるんだ」
脚本家と俳優を養成する以上に、共同生活を通して人間を養成する、生き方を学ぶ塾であったろう。
この26年間に300人以上もの卒業生を世に送り、「富良野塾」が一昨日で閉塾した。
巣立った若者たちのなかからいつか、土の、汗の匂いのするドラマを書く人、演じる人が現れるだろう。
『北の国から』の五郎や草太がまとっていた、あの匂いのする。》

そして私の投稿が「読売新聞」に載ったのが2010年4月15日だった。
《「富良野塾の心社会で生かして」
脚本家の倉本聰さんが、俳優や脚本家を養成するため、北海道富良野市に開いた「富良野塾」が閉塾したと知り、
とてもショックでした。
私は、富良野を舞台にした倉本さんのテレビドラマ「北の国から」が大好きでした。スピードや便利さ、
お金ばかりを求める風潮に、倉本さんがドラマを通して警鐘を鳴らすたび、救われる思いがしたものです。
以前、倉本さんを特集したテレビ番組で、「生きていく上で一番大切なものは」という質問をすると、
普通の若者は「お金」とか「携帯電話」と答えるのに対し、富良野塾の塾生は「水」「火」などと答えると紹介されていました。
26年間で、300人以上の卒業生を世に送り出した富良野塾。そこで培った価値観を生かし、
卒業生が社会のために活躍することを願っています。》

そして、2011年3月11日に東日本大震災が起きた。

東日本大震災の直後に出版された『獨白2011年3月「北の国から」ノーツ』の「あとがき」の中に
《東京の豊饒を支えたものの一部は、まさに福島の原発である。それが危険をはらむ物であることは、
誰しも心にあった筈だ。とすれば、豊饒を享受するものには、危険に対する覚悟というのものが、
元々あって然るべきではなかったか。
この事故によって作物を潰され或いは放棄を余儀なくされ、又、船を失い、海を失って漁業のできなくなった
福島の方々,その方々に対する補償というものも東京電力や国だけがすべきでなく、
そのおかげでこれまで散々豊かさを享受した関東、そして都心部の人々こそ、更には我々日本人全てこそが負担
すべき筋のものではないのか。
我々は豊かさの背後にひそむ、危険を覚悟する責任があったのだ。》にはひどく共感させられた。

本文中の
《文明ってのはある意味、化石エネルギーに支えられた奇蹟の砂上の楼閣なンだからね。》
には本当に考えさせられた。

一度は観てみたいと思っていた富良野塾の舞台を2016年2月に東京の新国立劇場で観る事ができた。
「肉体的にしんどく」倉本聰さんご自身が演出するのはこれが最後になると知り、見逃してはならないと思った。
奇しくもチケットが残っていたのは、私の誕生日だけだった。
舞台名は『屋根』

《富良野に初めて移り住んだ頃、僕は連日のように原野をさまよい、そここゝに残された廃屋を見て歩くのを日課にしていた。
その殆どはとっくに朽ち果てた、無残な過去の記憶だったのだが、その屋根をはがし中を覗くと、そこには離農した家族の
当夜の情景が必ずと云っていゝ程浮かび上り、僕の心を強烈に射て来た。
貧困の中で生き、日本の農を支え、夫々が小さな倖せを包み、時代から捨てられたそれらの廃屋。

そうした廃屋の情景を元に、「北の国から」を僕は発想し、「悲別」を書きそしてこの「屋根」を創った。
廃屋は僕の富良野に於けるいわば創作の原点だった。
今朽ち果てた原野に眠る、埋もれた家族のささやかな喜怒哀楽。
戦前・戦中・戦後そして今。時代に流されたそうした人々の暮らしの歴史を、屋根だけがじっと見つめて来たにちがいない。
屋根は一体何を想ったか。
この芝居は朽ち果てた屋根を通して語る一つの鎮魂の詩である。》(パンフレットより)

倉本聰さんの価値観を受け継いだ役者の方々の演技は素晴らしかった。

帰り際、倉本聰さんと「今日は私の誕生日で、最高のプレゼントになりました。」「そうですか…」と会話を交わし、
握手までしていただけた。
東日本大震災から5年目を迎えようとしている今、『ヒトに問う』倉本聰(著)を読み直し、改めて感動している。

《世間は今、核の恐ろしさを知り、それに代るべき新しい代替エネルギーは何かと血眼になって探し求めている。
だが世間の騒ぐこの新世代エネルギーへの模索そのものが、僕には胡乱に思えて仕方がない。
それが資本主義社会の亡者たちの、次なるビジネスチャンスを求める「欲望」に思えてしまうからである。
では次は一体何を供給し、そこからどうやって利をあげるかという。

その前に我々に出来ることがある。
ヒトの欲望を抑えることである。
欲しいものを減らしてしまうことである。需要そのものを減少させることである。
需要仕分けをすることである。(略)
ペルセウス流星群の空に舞う美しさを、かつてのヒトは皆見た筈である。だが今、夜空が晴れていても、
街の眩しさがそれを消している。
ヒトがヒトとして歩み始めた時、ヒトはそれを目にし、感動した筈だ。いや、そんな古くまでさかのぼらなくて良い。
僅か70年前、焼野原の日本で僕らにはそれが見えた。それを見、感動し、倖せにひたった。
あの頃、僕らは、まだヒトだった。》
 
我が家の夜は、暗闇に包まれる。だから満天の星空に日々感動する。
これが「豊かさ」なのだと改めて思った。
「豊かさ」とは…けしてお金でしか得られないものではないと。

芽吹き始めたふきのとう、すみれ、この感動の季節が私は大好きだ。

でも、この自然に感動させられる季節に、東日本大震災が起きた事も忘れてはならない現実。
《地位、立場、身分、利害、民族、国家など、あらゆる束縛を排除した地球上の何億という命の中の
微小な存在としての人類というヒト。
その一人としての人類というヒト。
その一人としての「あなた」に、いま真剣に考えて欲しい。》「ヒトに問う」より

2016年3月11日の早朝、伊豆下田の地でこれからの生き方を改めて考えさせられている。
「豊かさとは…」
うぐいすの美声を聞きながら。



                              
(下田市在住 佐生綾子さん)


          「文明は文化を駆逐する」

『「大漁ホンマグロ7匹」須崎のキンメはえ縄漁船 うち4匹200キロ超』
2016年1月19日の「伊豆新聞 」記事の中の
《森船長は「はえ縄を仕掛けるのに魚群探知機は使っていない。今までの経験と勘だけが頼りだったが、
うまくポイントに的中した。潮時や天候も良く、条件が全て整っていた。運も味方してくれた」と興奮気味に話した。》
「今までの経験と勘だけが頼りだったが、…」
を読み、感動した。

読んでいた本『美「見えないものをみる」ということ』
福原義春(著)を引用する。
《人間の精神の劣化
第1章にも書いた「文明は文化を駆遂する」。けだし名言である。
いま、便利な機械が生活や仕事のあらゆる場面で活躍している。人間は、初めのうちこそその便利さに感激し、
感謝もするが、次第にそれがある生活が当たり前になり、もっともっと便利なものを、もっともっと楽ができる
ものを求めるようになる。(略)
人間には怠け癖がつき、感性や創造性は確実に失われていく。機械のほうが人間より優れているという錯覚に陥り、
頼り切ってしまう。
(略)
そのような中で、日本人特有の美意識や生命に対する感受性も、やはり損なわれている。
もちろん日本だけに限った話ではない。「文明は文化を駆遂する」という事態は、世界中でかなりのスピードで進んでいる。》

私自身、最近とても悲しいと思う事の一つが、『四季』が無くなってきている気がする事だ。
便利さと引き換えに、とても大切なものがどんどん無くなっているように思う。

福原義春氏は資生堂の名誉会長で、著書が他にも沢山あり、かなりの読書家で、その価値観にとても魅力を感じる。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)


              「娘の進む道に」

娘が就職予定先の清水町にあるパティスリー『ナチュレ・ナチュール』でクリスマスにアルバイトで
大変お世話になりました。

そこで私は12月30日に三島に息子を迎えに行くついでに、自分でアレンジしたお花を届ける事を思いつきました。

とても喜んでいただき嬉しかったのですが、シェフのお父様が以前和菓子職人で、作った栗きんとんと、
羊羹を思いがけずいただいてしまいました。

きんとんをどうしようか…とまだ買っていなかったので、感激しました。
その素晴らしさに!

お陰で自分で煮た黒豆ときんとんと羊羹で甘味の三段お重が作れました。

『ナチュレ・ナチュール』のシェフ吉田守秀氏は普段フランス店に居る方が多いのですが、
知れば知る程凄い方で、娘が雇っていただけた事が奇跡だと思わされます。
高卒採用は娘が初めてとの事でした。
娘には「悪い前例にならないように」と言っています。

最初、専門学校を考えていた娘でしたが、NHK朝ドラ「まれ」を見始めた頃から考えが変わり、
川崎にある『リリエンベルグ』のシェフに娘がお手紙を出した際来た返事には、「この世界で必要なのは
『情熱と努力』」と書かれていて、娘は修業の道を選びました。

『ナチュレ・ナチュール』は私が情報収集の中で見つけたお店でしたが、求人はしているものの、
「専門学校卒業者」となっていたので、「無理だね…」と話していましたが、後日娘が電話してみると、
「高卒でもいい」と言われ、面接ではシェフのお母様がその場で採用してくださったのです。
娘の情熱が通じたのでしょうか…
《働けることになった。》
娘からもらったメールは今でも残してあります。

1月27日から31日に新宿伊勢丹で行われるチョコレートの祭典『サロン・デュ・ショコラ』には、
吉田守秀シェフも出店するので、娘は(私も)とても楽しみにしています。

娘が最初に憧れた、辻口シェフ、妻・川島なお美さんを亡くしたばかりの鎧塚シェフ、
ロールケーキ人気に火を付けた小山シェフ、名だたるシェフが集結します。
辻口シェフの話しを最近間近で聴ける機会を与えられ、とても感動しました。

鎧塚シェフは川島なお美さんの事で、テレビで拝見し、お人柄に感動しました。

小山シェフも最近テレビで話しを聴く事ができ、感性の素晴らしさに感動しました。

やはり、努力して成功した人の言葉には、説得力があります。
『サロン・デュ・ショコラ』で吉田守秀シェフに会える事を、楽しみにしています。

感性がものをいう世界だと思いますが、娘には下田の自然で培った感性を存分に発揮して、努力して欲しいと思っています。

「求めなさい。
そうすれば与えられます。
捜しなさい。
そうすれば見つかります。
たたきなさい。
そうすれば開かれます。」
(聖書)



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



         「クリスマスを前にして」

12月17日の伊豆新聞の記事『応援される生き方を』に目を見張り「事故後遺症から復帰した元教諭  腰塚さん、体験語る」
を読み、更に目を見張りました。
そして、この講演を聴けた伊東商業高校の生徒達は幸せだと思いました。

私の携帯に毎朝ある出版社から『今日の言葉』 のメールが送られて来るのですが、
12月12日の『今日の言葉』が
《「5つの誓い」
・口は人を励ます言葉や感謝の言葉を言うために使おう。
・耳は人の言葉を最後まで聴いてあげるために使おう。
・目は人のよいところを見つめるために使おう。
・手足は人を助けるために使おう。
・心は人の痛みがわかるために使おう。
腰塚勇人(「命の授業」講演家)》
を東京で働いている息子に転送したばかりでした。

以前購入した、『命の授業』腰塚勇人(著)を改めて読み、感動しました。
特に感動した部分を少し引用します。

《「うばいあえば足らず、分かちあえば余る」

中学校でのエピソードです。ある生徒がお弁当の時間になって「お弁当を忘れたこと」に気づき私のところへ来ました。
私はクラスのみんなに「忘れた子の弁当をつくってあげてほしい」と、私の弁当のフタを机に置いたところ、
クラスの生徒たちが自分のお弁当から少しずつおかずを入れてくれて、結果、「あふれんばかりのおかずとご飯・
パンのお弁当」ができあがり、お弁当を忘れた子は、逆に、食べきるのが大変でした。

「食べきれなかったら残してもいいよ」と言うと、その子は「みんなの気持ちだから」と言って一生懸命食べていました。
そのあと彼は何も言わなくても弁当箱のフタを洗って、私に返しに来てくれました。そのとき「今の子どもも捨てたもの
ではないし、大人次第でどうにでも成長すること」をしみじみと感じました。

まさに、「うばいあえば足らず、分かちあえば余る」。今の世の中はそうなっているのだと思います。

このごろご本当にそうだな〜って思うことがあります。それは「悪口を言っていると、よけいに悪いことが身の回りに起きる」
ということです。

逆に「ありがとう」を言っているとこれまた「嬉しいこと」が起きる気がします。つまり、「自己中心的になり他者に犠牲
を払ってもらう」か、「結果的に自己犠牲になろうとも他者に利益をもたらそうとできるか」で、前者は「共倒れか最後に
大きなしっぺ返し」をもらい、後者は「お互いに幸せ」になれるのです。》
とても感動、共感しました。

「5つの誓い」を読み聖書の一節を思い出しました。

《悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、
聞く人に恵みを与えなさい。》

クリスマスを前にして

私も『応援される生き方』を心掛けたいと思いました。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)


            「愛すべき未来へ」

やっと読み終えました。
「積ん読」状態の本が多数ある中、この本も途中まで読んだままでした。
震災復興とルイ・ヴィトンの繋がり、そしてそれ以前からのフランスと気仙沼の繋がり、助け合いに感動しました。

この本は以前から気になっていましたが、シルバーウィークの出会いをきっかけに購入しました。
その時の事を伊豆新聞(2015/10/04)の投稿に掲載していただきました。

「人間力」で地域活性化

帰省した息子が「車の運転をしたい」と言うので、先月下田一丁目にオープンした新商業施設「ナンズ・ヴィレッジ」
に行きました。遅い時間で終了間近でしたが、責任者の男性が息子を見るなり「すぐ分かったよ、あの時の…」
と声を掛けに来てくれました。
3年くらい前、高校卒業後に留学費用にと、息子が新聞配達をしていた時のこと。確か大雨の日に、自転車で走る名も
知らぬ息子に「頑張れよ!」とこの男性が、ジュースを渡してくださったのです。
私はその当時、男性の板金店の前の保育園に勤務していたので、息子から話を聞き、「実はあれは私の息子で…
ありがとうございました」とお礼を言い、温かい方だなと思いました。
息子が今東京で会社員だと知ると、「いつか一緒に何かできたらいいね。そのためにおじさん頑張るからさ!」
と名刺を下さり「ナンズ・ヴィレッジ」の社長と出会って、自分の仕事を廃業してまで転職し、下田の活性化に
情熱を燃やす姿に感動しました。
地域活性化に必要なのは「人間力」だと実感し、「行政任せにしていても変わらない」に共感しました。
私も自己実現のために忙しい日々がありますが、「ナンズ・ヴィレッジ」の成功を心から祈っています。
「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」アブラハム・マズロー(米国の心理学者)

この投稿には、書ききれませんでしたが、責任者の方との話しの中で私が「山の整備も急務だと思います」
と言うと「そうですよね!山と海は繋がっているんですよね」の言葉に私は以前から気になっていた
『牡蠣とトランク』畠山重篤(著)パトリック‐ルイ・ヴィトン(画)と『森は海の恋人』畠山重篤(著)を購入しました。
『森は海の恋人』の「解説」が川勝平太氏が、静岡県知事になられる前に書かれたものでしたが、感動しました。
ほんの一部を引用させていただきます。

(前略)ここには使命感が躍動している。やむにやまれぬ使命感に突き動かされるように、
ほかの地域の似た境遇の人々、そして未来をせおう子供のハートに届くように、懇切な説明をしながら、
渾身の想いをこめて書かれたのが本書である。
半世紀以上前のことになるが、東北の生んだ詩人宮沢賢治は、不作の予想されるイーハトーブの青田のなかで、
燃える目で一心に見つめる少年に、降り注ぐような愛情をもってこう語った。その一節――。

これからの本統の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることではないんだ
きみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ

宮沢賢治の予見は、同じ東北の畠山重篤さんにおいて体現されている。
今日、日本各地で、地域おこしのために地域の宝(自然・文化・歴史・伝統)のほりおこしがすすんでいる。
その多くが他の地域への目配りにかけていたり、お国自慢におわっているのは惜しい。
『森は海の恋人』は、それらとは一線を画している。これを学問と呼ぶことにためらう人もいるかもしれない。
だが、内容は学際的・総合的・実践的の三拍子がそろっており、新しいスタイルの学問というべきである。
「地域学」ないし「比較地域学」といってよいかもしれない。ローカルな地域に根をはりながら、
グローバルな地球をにらんでいるので「地球地域学」(グローカロジー)といってよいかもしれない。
そのパイオニア的作品である。
近代日本を建設するために福沢諭吉は「実学」を奨励した。福沢のいう「実学」、すなわち「舶来の洋学」を学んで
実践した近代化の過程は自然をこわすことでもあった。
広葉樹を針葉樹に植えかえ、ダムを建設し、流域の自然を破壊した。その破壊された環境を本来の自然に回復し
地域力をつけるための実践的処方箋を本書は提供している。本書はポスト近代化の日本をつくる新しい実学の
誕生を告げる書物である。
(国際日本文化研究センター教授)

『森は海の恋人』の中の一節も心に染みました。

ハイテク機器が搭載された船を操る現代っ子漁民も、機器に頼り切っている者は漁が少なく事故も多いといわれる。
沿岸に生きる漁民にとって、山を読むことは今も変わらぬ必修科目なのである。

ナンズ・ヴィレッジの責任者梅田さんに会った時、EXILEの歌『愛すべき未来へ』のワンフレーズが頭に浮かびました。

♪子供たちが夢を持ったまま
♪生きていってほしいと願うから
♪今僕らはここで何をすべきか…
♪愛すべき僕らの
♪未来のため



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



          「秋の夜長に、心のデトックス」

10月31日(土)に

下田市西中23‐20
インマヌエル下田キリスト教会
・0558‐22‐5333

でチャペルコンサートがあります。(7時半〜)

チェロ奏者のボーマン先生はフィンランド出身で写真家でもある方です。

NHK「ちいさこべ」の録音ではソリストをつとめたボーマンが演奏すると、聴いていたアシスタントエンジニアをはじめ、
多くの関係者が、あまりにも美しく心に響く演奏だったため、思わず泣いてしまったと言う逸話がある。『ウィキペディア』
ピアノ奏者のルリ子夫人も素晴らしい方です。

今年で5回目ですが、今回が最後かもしれません。

1人でも多くの方に感動をお伝えしたいと思います。

秋の夜長に素敵な音楽で、心のデトックスをしてください。

私もどんな花を飾ろうか…
と楽しく悩んでいます。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



            「百歳の凛とした生き方」

8月14日の夕方のニュースで、沼津市役所で昨年発見された103歳現役美術家の篠田桃紅さんの
作品「泉」が3日間(14〜16日)一般公開されている。を知り、私の知的好奇心はじっとして居られず、
15日に見に行きました。
いただいた資料で、私が生まれた1966年に納品されたもので、篠田桃紅さんが今の私くらいの歳の頃
の作品と知り、とても感慨深くなりました。
それが、カーテンで隠れていて30年くらい存在を忘れられていた事実にも、驚きました。

帰りに篠田桃紅さんの著書「百歳の力」を買いました。
「自分が動きやすいように、妨げるものや邪魔するもののないように、自分のグラウンドをつくったことが
私の精神に大きく作用していますね。居心地がいいも悪いもなくて、ただ気楽にそこにいる、そういう気がする。
要するに責任感みたいなものがない。ほかの人に対するとか、画壇とかなにかに対するとか、一切の所属、所有がない。
ですから、ほんとの自由っていうのはどういうものかっていうと、私なのかもしれないと思いますね。
『自』という字に『由る』が、自由です。私は自由です。自らに由って生きていますから」にとても感動しました。
『自由』の大切さを知ると同時に、私も『生涯現役』でいられる何かを見つけたいと思いました。

全国紙の記事を読み行きたいと思っていた「沼津市芹沢光治良記念館」にも行きました。
「戦後七十年連動企画展・光治良と戦争展」
終戦記念日のこの日に来れてタイミングが良かったです。

パンフレットの表紙に書かれた「文学はもの言わぬ神の意思に言葉を与えることだ」
にとても感動しました。

不遇な生い立ちも知り、でも勤勉さで自分を成した姿が心に沁みました。

『戦中日記』の
「ラバウルにいる20万の兵をすてるつもりであろうか。神様、戦争をやめて下さい。(44年6月1日)
「戦争をつくるのは民衆でなくて、ごく僅かな人々」(44年6月14日)

今の政治を見ているととても考えさせられます。

103歳現役で凛とした生き方をされている篠田桃紅さん。憧れます。

沼津市名誉市民・芹沢光治良氏も96歳で亡くなる年まで「神シリーズ」全8巻を書き続けた方。

これからの世の中、生涯現役で生きられる人を増やす必要がある事を感じずにはいられません。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



              「ケーキは芸術」

NHKの朝ドラ「まれ」は毎週視聴率1位をほぼ独占しています。
世界一のパティシェを目指し、奮闘する女の子の物語です。

パティシエ志望の高3の娘の影響で、私も途中から見だしてはまってしまいました。

ある土曜日の朝「まれ」を見終わると娘が「ケーキ食べたくなったね…」と言うので、「ケセラ・セラ」に行きました。
娘が中学生の時、職場体験でお世話になったお店です。

「ケセラ・セラ」を経営するご夫婦が修業したお店は、「まれ」のモデルで、お菓子作りの指導者でもある
スーパーパティシエ辻口博啓さんのお店。
東京自由が丘の「モンサンクレール」です。

ドラマの中では「セマヴィ」という名前で出ていて、マンガのタイトルにもなっている「セラヴィ」というケーキ。
(写真の白いケーキ)

これは辻口さんの人生の酸いも甘いもを表現したケーキだそうで、「人生」がキーワードになっているそうです。
1996年ソペクサコンクールで優勝したスイーツです。
以前、娘の誕生日に「モンサンクレール」から取り寄せた事がありましたが、下田で買えるのは、凄い事だと改めて
思いました。

情熱と努力の人で、私も書物等を読みとても感動しました。

辻口さんの大切にしている本が高校の恩師に勧められた本、
谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』と知り、昨年娘の誕生日にプレゼントしました。
(まだ読んでいないような…)
辻口さんも社会人になって読み、仕事にとても役立っているそうなので、娘もいつか読んでくれたらいいと思っています。

「ケセラ・セラ」のケーキをお皿にのせると、ケーキも芸術だと感じました。

そして、食べてその美味しさに感動しました。

「この先、たとえどんなに辛くても、夢があるならあきらめるな!
自分を信じて前に進め!
そうすれば必ず…。
夢は必ず叶うから!!」
マンガ『セ・ラ・ヴィ』より



                              (下田市在住 佐生綾子さん)


        
    
「地域再興を考える」


2015年5月25日の伊豆新聞記事
「地域再興」考える・下田JCが特別講演“挑戦”

「講演は独自のブログによる情報発信、地域の観光体験通信販売などを手掛けるLIG社長の吉原ゴウさん。
トークでは吉原さんと伊豆に移り住みNPOきこりサーファーズを立ち上げた森広志さん、キャンプ場や
飲食店などを経営し下田市の南豆製氷跡地に商業施設建設を進めているビレッジインクの橋村和徳さんの
3人が『スピーカー』を務めた。
…橋村さんは『地域を良くするのに一番大切なのは人。…』と指摘した。」

を読み橋村さんの言葉に私も常日頃思っている事なので共感したと同時に最近取り寄せた本を思い出しました。

私の大好きなNHKテレビ「知恵泉」で渋沢栄一の『道徳経済合一説』

「仁義道徳と生産殖利とは、元来ともに進むべきものであります…
…今日、私の論語主義の『道徳経済合一説』も、他日、世の中に普及して、社会をしてここに帰一せしむる
ようになるであろう、と行末を期待するのであります」

を自身の声で聞き、起業家としての凄さにとても感動しました。
渋沢栄一の事を調べていた中で、渋沢栄一の書生に昭和4年に16歳でなったのが、中伊豆出身の杉本行雄
と知り、とても興味を持ち取り寄せた本が、『「挑戦」55歳からの出発・古牧温泉・杉本行雄物語』でした。

「生いたち
環境に影響され強い男に育つ
杉本行雄は、伊豆半島天城山のふもと、伊東温泉から冷川峠を越えたところ、現在の静岡県田方郡中伊豆町
字徳永に、大正3年(1914)2月28日、父恒蔵、母はるの間の子どもで、8人兄弟の5男坊として生まれた。…」
とても感動する本です。

「知恵泉」に出演していた「里山資本主義」の著者藻谷浩介氏の言葉
「ここにしか無い物をみがいてしめす」
「時間をかけてみがいた物はそう簡単になくなりません!」
を聞き、「地域再興」が時間が 掛かる事であると感じると同時に力を入れる所を間違えると大変な事になると思いました。

「里山資本主義」の裏表紙に
まったく新しい日本経済再生策!!

事例1:木屑で発電し、石油・石炭の値段に左右されない地域経済を営む町がある。
事例2:高齢化社会の島で、自分も地域も利益をあげる方法が生まれた。
事例3:オーストリア等ではエネルギー革命が起き、木材が今後の経済を握った。

と書かれています。

私自身、里山に住み山の整備が急務(伊豆縦貫道を作るよりも)と感じている者として、「NPOきこりサーファーズ」
のような働きが必要と思っています。
若い人たちの雇用が作れたらいいと思います。

そう言えば、森林を整備する為の税金が集められていたはずですが、どうなっているのか?疑問です。

3月15日の全国紙の記事
「人口減対策カネより知恵
大阪市立大の竹中恵美子名誉教授(労働経済論)は指摘する。
『定住のためには、地域や職場ぐるみで子育て世帯を支える仕組みや雇用の創出が不可欠。お金だけ出しても子育てしやすく
なるわけではない』
誘致した企業に依存し、打撃を受けた江津市が、再起に向けて大切にしたのは『起業する人材の誘致』。企業や人口ではなく、
一人ひとりの人材だった。」
にとても共感しています。

この文章を考えていた2日間の夜、2日共フクロウの鳴き声が聞こえてきて、感動しました。
下田へ移住して間もない頃、フクロウの姿を見て感動した事も思い出しました。

森の整備を頼みに来ているのでは…
そう感じた夜でした。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)


         「石垣幸二さんの人間力に感動!」

5月18日下田東急ホテルで、
「水族館革命!〜世界初!深海水族館の作り方」
沼津港深海水族館長・石垣幸二 氏を聴講しました。
石垣幸二さんの人間力にとても学ばされ、感動しました。

「国際人になりたい」と志を立てた学生時代、バックパッカーで14カ国を旅した。
にとても素晴らしいと思いました。
私の息子もバックパッカーをしたいと言いながら結局できないまま4月から会社員になってしまいましたから…

サラリーマン生活で営業をしている中で、常に全力投球、成績も上位であったにもかかわらず「専門性が無い…」
と悩み「海のスペシャリスト」になりたいとの夢に向かって方向転換した時のエピソードもとても感動しました。

その夢の原点が、子どもの頃遊んでいた鍋田浜の海であること。
大学に入って学ぶ事が本当に楽しかった。それまでは勉強はあまりしていなかった。
の話しを聴き、将来大成する為には、子どもの頃に自然の中で大いに遊ぶ事の重要性を改めて感じました。

独学の建築家、安藤忠雄氏の子供時代の記述を思い出します。
「小学校の頃は、ひたすら遊び一辺倒で、2時か3時ごろに授業が終われば、かばんを放り出して辺りが暗く
なるまで遊んでいました。
あの頃は原っぱの王様でした。特に淀川での釣りは面白く、トンボ捕りもかなりうまかった。
こうして遊びながら自然と対話の中で身につけた知恵が今の自分の糧になっているように思います。
自分で考え決定し、行動するといった生きるための知恵を学びました」

私が子育てする際の重点もそこにありました。

息子が小学校3年の夏、仙台から移住した際、こんなに自然に恵まれているのに、子ども達が家でゲームをしている
実態がとてもショックでした。

一見価値の無いように思われる「深海生物」を「逆転の発想」で『沼津港深海水族館』を開設から3年あまりで
来館者が100万人を超す人気施設に育てた発想力に感動しました。

「お金じゃない。気持ちの問題」の言葉がとても心に沁みました。

沼津を入り口に伊豆全体を活性化したい。
地域活性化には「思いを1つにする」事が大切。

とても考えさせられました。

同じ会場で3月18日には『伊豆元気塾』を聴講させていただき、とても勉強になりました。
昨年私がした『感動エピソード」への投稿に対して、「感謝状」と「図書カード」を頂き、嬉しく思いました。
あれからもう2ヶ月、時の経つ速さを感じながら聴講しました。
『元気塾』でも結論的には「地域活性化に必要なのは人間力」そういう事だったと思います。

19日の全国紙の石垣幸二さんの記事の横に「伊豆文学賞募集」の記事があり、私も「読みたい。書きたい。」
の思いを大切に、好きな事に向かって尽力しようと心新たにしました。

テレビでも引っ張りだこの石垣幸二さんの今後のご活躍が、楽しみです。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



     「こどもたちの未来をだめにしてはいけない!」

5月16日伊豆高原のアートフェスティバルに行きました。
目的は、絵本作家・田島征三さんの『流木アート展』です。
会場は息子さんが経営する「ビストロくさむら」で、素敵な作品を見させていただきました。

「ビストロくさむら」のずっと食べてみたいと思っていたランチも、外食するなら心のこもった料理を食べたい。
の私の思いを満たしてくれる料理でした。

私は田島征三さんの絵本が大好きです。
先日取り寄せた『海賊』に挟まれていた
「こどもたちの未来をだめにしてはいけない!」
を読み、感動しました。

田島征三さんは伊豆高原にお住まいで、私が勤務している保育園に来て講演をしていただく事をお願いする
お手紙を出しました。
直筆の返事が届き、感激しました。
とてもお忙しい方ですが、実現を夢みています。

伊豆には結構絵本作家の方が住んでいらっしゃるようで、絵本で地域活性化なんて素敵だな…と思います。

次に寄った『沙羅の木文庫』もずっと来たかった場所です。
個人の方が運営している文庫で、とても素晴らしい場所でした。
月に2度の開館ですが、来ていたお母さんが、「こういう場所があって嬉しいです。子供も大好きで…」
と話してくれました。
私も将来、こんな事ができたら素敵だな…。
と思わされました。

地方交付金はほとんど割増商品券などに使われてしまうのでしょうか?
もっと地域活性化に一番必要な、「人づくり」の為の教育に使うことはできないのかなぁ…と思います。

私が仙台から移住した際に残念に思った事は、図書整備にあまり力を入れていない事でした。
土台作りとなる幼児教育にも、もっと目を向けて欲しいと、保育現場にいて常に思います。

地域活性化は目先の経済効果ではどうにもならないと、ひしひしと感じます。

「こどもたちの未来をだめにしてはいけない!」

私も強く思います。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)


      「ドナルド・キーン氏の講演が楽しみ」

私が今楽しみにしている事は、6月20日に下田文化会館大ホールで行われる、
ドナルド・キーン講演会「下田と私、そして美術」です。

ずっとキーン氏の講演を聴きたいと思っていましたが、下田で聴けるとは夢のようで、
すぐに上原近代美術館に申し込みに行きました。

対談者の土屋典康氏もとても尊敬している方で、以前にドナルド・キーン氏が家に遊びに来るほどの
親交があるとお聞きして、凄いな〜と思いました。

キーン氏はコロンビア大学の名誉教授ですが、昨年息子の短大の卒業式に出席の為渡米した際、
コロンビア大学も見学に行きました。
丁度卒業式の日で、感動した事を思い出します。

川端康成、谷崎潤一郎、安部公房、三島由紀夫らと交流した。三島由紀夫をたずねて、度々下田を訪れた方。

「私の大事な場所」の表紙をめくると三島由紀夫や吉田健一らとの記念写真は感動します。

家にあった2冊を講演会までにもう一度読みたいと思っています。

東日本大震災をきっかけに、日本に帰化された事を知った時はとても感動しました。

2013年3月5日の読売新聞の記事にも感動しました。
ドナルド・キーン氏「率直に言うと日本人にがっかりしています。
力を合わせて東北の人を助けると思っていました。
東京は(電気が)明るい。必要のない看板がたくさんある。忘れているんじゃないか。まだやるべきことはいっぱいある」

私もオリンピック招致反対派でしたので…

2015年1月15日の記事
「伝統忘れた日本に『怒』」
の一部「学生たちはカントやマルクスを語り、そうした言論の自由をもたらした米国を批判する、
岩波書店の「世界」を愛読した。下宿から望めた見事な景観は、新幹線の工事が始まり、ある日、台無しになった。」
を読み、とても考えさせられました。

雅号は鬼怒鳴門。「私はもう日本人。内輪褒めはしない。クールジャパンという言葉も使いません」

講演会には会場が満席になる事を願っています。



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



         「読書の大切さ、素晴らしさ」


4月3日職場の保育園の入園式でした。
職員があいさつする機会があったので、

「私は本が大好きなので、みなさんと本を沢山読みたいと思います。
最近『将来の学力は10歳までの読書量で決まる』という本を読み読書の大切さを改めて感じました。
ちょっとの時間の読み聞かせの積み重ねが、将来大きな花を咲かせると思います。
でも、基本は家庭教育ですので、ご協力の程宜しくお願いします。」
と言いました。

昨年度の終わり頃、1歳の女の子が、いつもは読んで…。と持って来る本を、椅子に座り自分で開いていました。
様子を見ていると、恐竜が出てくる場面を開きながら、「ワァー!」と言っている姿に成長を感じ、感動しました。

これからも『読書』の大切さ、素晴らしさを発信したいと思っています。

「読書習慣があるだけで、頭ひとつ抜き出ます!」

『将来の学力は10歳までの読書量で決まる!』より



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



        「置かれた場所で咲くという事」

今年も庭にスミレの咲く季節になりました。
そして東日本大震災からもう4年が経つ3月11日を迎え、改めて風化させてはいけないと思わされた1日でした。

卒業式の季節でもある今、「女性の前例がない…」と言われながら「それなら私が前例を作りましょう」と思い引
き受けた稲生沢中学校のPTA会長。
平成24年度の卒業式の「祝辞」を懐かしく読みました。

卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。
そして保護者の皆様この日を迎えられました事、本当におめでとうございます。

私は、3年生の英語の教科書に、星野道夫さんの話が載っている事を知った時とても嬉しくなりました。
私も星野さんの2冊の本を読み、とても感動していたからです。
星野さんはアラスカに住んでいた写真家で、1996年44歳のとき、熊に襲われて亡くなりました。
大学1年の時アラスカに行きたい為にアラスカの村7ヶ所に宛名や住所がメチャクチャな手紙を書き、
半年経ったある日「世話をしてあげるから今度来なさい」
と一つの家族から返事が来て、アラスカに行けたエピソードは、3年生は知っていると思います。
でももっと凄い事が「魔法のことば」の本に書いてありました。
「卒業する君に」と題して星野さんが中学3年生に贈ったお話しの一部です。
「アラスカの大学の入学に必要な英語の試験を受けたら点数が30点足りなくて、不合格の通知が来たのです。
でも僕はアラスカに行くことを決めていた。
本当にやりたいと強く思うことは時として勇気を生むようで、点数が足りなかったにもかかわらず、
僕はそのまま日本を出てアラスカに行ってしまいました。
それで学部の教授に直談判して
『点数が足りないだけで1年浪人することはとても考えられない。僕はもうアラスカに来る事を決めている』
と言うとその教授も少し変わった人で、僕の話を真面目に聞いてくれて、入学を許可してくれたんです。」

この部分を読んで「情熱は人を動かす」をみごとに証明してくれていると思いました。
とても長い文で全部ご紹介できず残念ですが、
『僕らの人生というのはやはり限れた時間しかない。本当に好きなことを思いきりするというのはすごく
素晴らしいことだと思います。』と締めくくられていました。
「人間は、どれだけ長く生きるかではなく、たとえ短くても良く生きる事が大切」
と東日本大震災後私は強く思うようになりました。
「旅をする木」の中で『氷河の上で過ごす夜の静けさ、風の冷たさ星の輝き…情報が少ないということはある力
を秘めている。それは人間に何かを想像する機会を与えてくれるからだ』と星野さんは言っています。
情報が溢れ過ぎている事の「弊害」それは「自分で考える事」をしない人が増えている事だと思わされます。
私はこの祝辞を一生懸命考えました。
ですから皆さんにも「自分で考え話せる人」になって欲しいと強く願います。
その為には、日頃から読書をしたり新聞を読む等の準備は必要です。
その積み重ねに助けられる時が必ずあると思います。

「チャットやツィートを控え、一人静かに考えなさい」

これは2月末に600年ぶりに生前退位したローマ法王ベネディクト16世の警告です。
どうか限りある時間を大切に生活してください。
これを祝辞といたします。
(以上)

最近起きたばかりの「川崎・中1殺害事件」では連日新聞の記事を見て心が痛むと同時に、上村遼太君が
スマートフォンを持ってさえいなければ、こんな事件は起きなかったのでは…と思えてなりません。
中1で何故スマートフォンを持つ必要があるのか?
スマートフォンを持たせた事でお母さんはその分も働かなくてはならないはずです。

私はこの事件で、高2の娘にスマートフォンを持たせない。と心改にしました。

私は今、保育園で保育士補助として0・1歳のクラスで働いていて、
「おもちゃも洋服も要らないからお母さんと一緒にいたい」子供達の心の声が伝わって来て、つらくなるのです。

PTA会長と兼務した環境浄化委員長として書いた文章は、回覧板で回った際、近所の方から「感動しました…」
とわざわざお電話を頂き、嬉しかった事を思い出します。

「置かれた場所で咲くという事」

わが家のある上大沢から西中の職場まで車通勤していると、今はあじさいがとても美しく咲いていて、
目を楽しませてくれます。色とりどりのあじさいには、神秘を感じてしまいます。
その他にも、軒先の花が心を癒やしてくれたり、日頃から地域の方々が環境整備をしてくださったりしている事
に感謝しながら生活しています。
環境浄化委員長として「環境浄化」を考えた時、少し趣旨が違うのですが、以前読んだ本の中の一節が思い出されました。
『虚無が無意味に拡がりつつある日本の社会において、子どもたちを取り巻く環境を破壊から守り、浄化する
責任はわたしたち大人にある。
そのためにはまず、私たちの一人ひとりが、心の中にある醜い思いを躯遂して、子どもたちが吸う空気を浄めなければならない。』
「愛と励ましの言葉366日」渡辺和子(著)です。
同じ著者の本で、最近話題になっている本「置かれた場所で咲きなさい」の帯に書かれている文章を読むだけでも、
とても私自身励まされたのでご紹介したいと思います。
『人はどんな境遇でも輝ける。どうしても咲けない時は、下へ下へと根をのばす。つらい日々も、笑える日に
つながっているのです。
時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのです。置かれたところで咲いてください。
結婚しても就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。
そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。』
仙台から移住して、間もなく10年が経とうとしています。
「何故自分がこの地にいるのか?」そんな疑問を抱いたこともありましたが、これからも「おかれた下田で咲く」
努力をしたいと思います。
そして、それが被災地の復興にも繋がることを信じています。
地震が来たら「どう助かるか」も大切ですが、私はもし明日命を失うことがあったとしても、悔いの無い様
「一日一日を真剣に」生きたいと思います。
未熟者ですが、一年間よろしくお願いいたします。  (以上)

多数に追随すれば必ず自分を見失う。
孤独を恐れず、
したいことを続けるしかない。
安藤忠雄(建築家)

君が独りの時、
本当に独りの時、
誰もができなかったことをなしとげるんだ。
だから、しっかりしろ。

ジョン・レノン(英国のミュージシャン)



                              (下田市在住 佐生綾子さん)



          「難を転じる南天の実」

今年も裏庭に沢山の南天の実がなりました。

以前教会のクリスマスプレゼントで戴いた
『いのちより大切なもの』星野富弘(著・絵)の中に「南天」があったのを思い出し、開いてみました。

口で描いた南天の絵とともに書かれた詩に改めて感動しました。

「手と足が不自由になって
歩けなくなりました
土を掘ることも
スキーをすることも
できなくなりました
でも神様ありがとう
あなたが持たせてくれた
たった十グラムの筆ですが
それで私は花を咲かせたり
雪を降らせたり出来るのです
神様ほんとにありがとう」

少しのどが痛い日々が続いているので、南天の実を乾燥させたものを煎じ、蜂蜜を入れて飲んでみました。
美味しい!
「南天のど飴」があるように、南天はのどに良いと知っていたので…。
薬と違って速攻性はありませんが、しばらく飲んでみようと思います。

私は「自然治癒力が弱まるから」と薬は殆ど飲まずに育てられました。
だから自分の子供もそうして育てました。

そのために娘から
「熱が出てもすぐ治るから学校休めない…」
と罰あたりな事を言われたり。
インフルエンザに罹った人のそばにいた事が判明しても、うつらない息子、私…
予防接種もしていないけれど。抵抗力が強いのでしょうか。

これからもなるべく薬にたよらず生活できたら…と思っています。

本当は「草で楽になる」で「薬」ですよね。
南天の実や葉は、お正月の料理の飾りにも活躍してくれました。

「難を転じる」で「南天」
素敵ですね。

星野富弘さんの本の後ろに
「群馬県みどり市の草木湖畔に位置する美術館は、…」
と『富弘美術館』が紹介されていました。
いつか必ず行ってみたいと、思う場所の一つです。

事故で首から下の自由を失ったのに星野富弘さんの経済効果は凄いと思います。

それも「勇気」「優しさ」「愛」などを与えて得る経済効果だから余計素晴らしいと思います。
「神様がたった一度だけ
この腕を動かしてくださるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れるぺんぺん草の
実を見ていたら
そんな日が本当に
来るような気がした」

本当に感動します。

2010年富弘美術館開館20周年。
入館者が6百万人を超える。
を読み、星野富弘さんの魅力は凄いと思いました。

伊豆にもそれくらい魅力的な施設があればいいのにと思います。

そんな事を考えていた日、毎日「致知出版社」から送られて来る「今日の言葉」のメールが届きました。

「人生の中でいくら得がたい体験や善い人との出逢いといった太陽や水を与えられても、
自分の心にそれを受け止める善き種がなければ、
人生を花開かせることはできない。」

鈴木秀子(文学博士)

鈴木秀子氏は下田出身で下田北高の卒業生です。
何年か前に確か下田北高で講演会があったのを新聞記事で知り、「聴きたかったな〜」と思ったのを思い出します。

地域活性化を考える時、やはり「人間力」の重要性を感じます。



                               (下田市在住 佐生綾子さん)



        「東郷平八郎氏の生き方に思う」

1月の休日のある日、以前から行きたいと思っていた「伊東東郷記念館」に行きました。
『「日露戦争の日本海海戦当時の連合艦隊司令長官だった東郷平八郎元帥が晩年を過ごした別荘が、
松川河口近くの《東郷小路》と呼ばれる露地の中ほどに当時のままの姿で保存されています。
この別荘は、東郷元帥が夫人の療養のためにと昭和4年に建てられたもので、昭和8年まで利用されました。
元帥死去のあと、海軍将官のための休養施設として使用され、戦後は石橋財団により
「元帥がお使いになったまま釘1本変えてはならぬ」という方針の下、大切に管理され、
一時民間の手に移りましたが、平成22年寄贈を受けた東郷神社により、平成24年12月に
「伊東東郷記念館」として再度一般開放されることになりました。
建物は、東郷元帥の人柄を物語るかのように質素なたたずまいの和風建築で、元帥を偲ぶ数々の遺品と
共に大切に保存されており、現在伊東市に現存する唯一の本物の別荘として、また日本に存在する唯一の
東郷元帥旧居として、見学できる貴重な歴史文化遺産です。』

ボランティアガイドの高橋さんが
「どこからいらしたのですか?」「下田です」
「下田北高校に14年くらいいました」「娘は今下田高校に通っています」
の会話で教師をされていた事を知りました。

日露戦争の勝利の後、米国ニューヨークで、野口英世が東郷元帥の為に開いた慰労会のパーティー
の様子の写真にまず、とても感動しました。

東郷元帥が、「質素倹約」の人で足袋が破けると自分で繕い、子供に「みっともないから止めてくれ」
と言われるまで履いていた。

お客様が来ると必ず、羽織り袴に着替え対応した。

書道にも長けていて、表札を付けるとすぐ盗まれ、「なくなったらまた書けばいい」
と書き続けたとのエピソードも聞けました。

碁を楽しんだ離れの間には、犬養毅氏から贈られた碁の道具の実物があり、とても感動しました。
東郷平八郎氏の『雄風』の書がとても素晴らしいと思いました。

東郷平八郎氏が実際使っていた船の櫂も触らせていただき、その軽さに驚きました。

1月25日の伊豆新聞の「伊豆のひろば」の投稿に考えさせられました。

『意志ある長選ぶのは市民

伊東市富戸  嶋田浩三(68)
4日の当欄に掲載された「市民と肩並べ財政健全化を」に賛同する者です。
一般市民に比べて市職員の高額な給与、賞与、退職金については、かなり以前にも掲載されたことがあり、
その後若干は改善されたかもしれませんが、市民が思っているのとの隔たりは大きいように思います。
これは「改革をしてやる」という意志のある長や議員を、選んでこなかった市民にも責任の一端があると思います。
これからは大阪市長や隠岐海士町長のように、改革をやってくれる長と議員を選ぶべきだと思います。
国、地方の借金は現役、若い世代がカードローンをしているようなものです。
住民一人一人がもっと行政に関心を持ち選挙に行くべきです。そうしなければいつまでも現状を変えることは
できないと思います。』

言いにくい事を言う勇気に感動しました。
私も常々思っていた事で、本音を言う人が増えないと、世の中は良くならないと思わされます。

東郷平八郎氏の『質素倹約』の精神が、国民一人一人に必要なのではないか…と感じる、今日この頃です。

ラジオから
「今のままの生活を続けると、2030年には地球2つ分の資源が必要となる」(ACジャパン)
が聞こえ、危機感を覚えました。

「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」  宮沢賢治




                               (下田市在住 佐生綾子さん)



         
「伊豆下田陶芸展にて」

1月9日〜12日に下田市民文化会館で行われた「第4回  伊豆下田陶芸展」に行きました。
陶芸展の会場の手前で行われていた「近代美術展」の横山大観の作品、「特別企画 俳人・歌人展」の高浜虚子、
与謝野晶子の作品等にとても感動しました。
陶芸展の会場に進み、手仕事の素晴らしさに感動しました。
出品者の一人、土屋典康ご夫妻に会えるかもしれない…と楽しみに行きましたが、残念ながらいらっしゃいませんでした。

増田晶 氏が会場にいらして、ご自分の作品「木の葉天目」について
「生の木の葉を焼き付けたもので成功率が千枚焼いて1枚か2枚」
と説明してくださり、作品の素晴らしさを感じました。

「保育園でお年賀に増田さんの湯のみをいただいたばかりです。増田さんは下大沢ですよね。私は上大沢に住んでいます。」
「お名前は?」「さしょうです。」
「あれ?伊豆新聞に投稿している以前中学校でPTA会長をやったのは、あなたのお姉さん?」「いえ、私です。」
「あの時より若返ったんじゃない?おじさんばかりの前で堂々としゃべっているから凄いなと思ったよ。市議選にでも出たら…」
と言われ、私が中学校PTA会長だった時、増田さんが区長として何かの集まりにいらした事を知りました。
「市議選にでも…」と言われ、そんな事を考えた事もあったな〜。あれからもう4年も経つのだと、時の流れの速さを感じました。

でも、私のような少数派の意見の者が、多数決の場に入っても、何もできないと悟り、今はそんな思いはありませんが。

今はとにかく読む事、書く事で自分の思いを発信する事に力を入れようと思う日々。

増田さんにも「陶芸などのアナログの世界の素晴らしさを新聞に投稿してください。」
とお願いされました。

今回息子と娘を連れて行きました。
知的好奇心を持ってもらいたいとの思いからです。
でもいつも文化会館の催しに来て感じる事は、「若い人がいない」という事です。

文化会館の存続も、今のままだと難しい。との噂も聞きました。
下田市民文化会館・事業クリエーター小川さんの熱心な姿をこの日も見ました。
もっと市民皆が、感心を持つ必要性を感じます。

「みんな経済、経済と金のことばかり。もっと文化を良くする事に本気にならないと…。」
一昨年亡くなったコラムニストの天野祐吉氏の言葉を思い出します。

次の日、私の大好きなテレビ番組NHK・Eテレ「猫のしっぽカエルの手」で「表具屋」をしている方が出てきて、
古美術等を修復する仕事が、とても素晴らしい職業だと思いました。

番組の主人公ベニシアさんはイギリスの貴族の身分を捨てて、京都の里山に住み、里山の素晴らしさ、自然の大切さ
を発信している私の憧れの人です。

この日のベニシアさんの詩にとても感動しました。

『 幸せの代償は?
「今の一針が後の九針の手間を省く」
というイギリスのことわざがあります。
「早めに」修繕すれば時間とエネルギーが節約できるという意味です。
人間は幸福と利便性を追求して暮らしを快適にしてくれるであろう製品を次々と発明しました。
「この幸せの代償は?」

暮らしは本当に便利になったでしょうか。
前よりゆっくりできる時間が増えたでしょうか。
人生は与えられた時間を賢く過ごさなければいけません。
わたしは家族の世話や家事でバタバタしないよう
日々時間のやりくりに努めています。』

わたしもバタバタしている一人として、ベニシアさんの価値観に触れるとホッとします。

「里山資本主義」の本を読み、感動し、息子にも
「これからはマネー資本主義ではなく、里山資本主義だよ!」
と言ったけれど、息子は4月から東京で会社員。
息子のバイト先に下田の会社の社長さんが「うちに来てもらえませんか?」
と来てくださった話しも聞き、でも本人が都会に行きたいのだからしょうがない。
と諦めましたが…

私も里山に住む者として、里山の素晴らしさを発信して生きたいと思います。

下田に移住する際、「自然は素晴らしい」との信念を持ち、移住した事を改めて思います。

「土に根をおろし、風と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう。」どんなに恐ろしい武器を持っても、沢山のかわいそうな
ロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ!(宮崎駿監督  天空の城ラピュタより)



                               (下田市在住 佐生綾子さん)


          
「食に思う」

私がその人を知るきっかけとなったのは、2014年12月4日の全国紙の記事でした。
『「美味しい料理は愛情から」。
1955年(昭和30年)に開校した「魚菜学園・自由が丘お料理学校」(東京)の教室には創始者、田村魚菜
(1914〜91年)のモットーが掲げられている。
「料理を出す相手への気配りが必要だと常々言っていました」と、妻で学園理事長の田村千鶴子(82)は話す。
「料理は愛情」という今もよく聞くフレーズが広がったのは戦後。料理は空腹を満たすだけでなく、もっと豊かな
ものだと捉えていく。
魚菜は、伊豆半島の漁村に生まれ、上京して板前修業を積んだ。戦争が終わり、「これからは大衆の時代」と、
料理研究家の道へ。(中略)
千鶴子は「料理に愛情があると、家庭の食卓に笑顔が生まれる。この思いを、これからも伝えていきたい」と話す。』

「魚菜は伊豆半島の漁村に生まれ…」
の記述を読み、伊豆半島の漁村とはどこなのだろうか?と気になり、パソコンで調べててみましたがわからず、
『田村魚菜・料理大事典』を取り寄せました。
その大きさ、重さ、高級感に驚きました。

「しいの実
ブナ科に属する常緑の大樹しいの実。6月頃花が咲き、翌年の10月頃実が成熟する。卵形で先端がとがり、
長さ1.5センチ位。表皮は褐色で中の白い子葉を食べる。日本の中南部の暖かい地方に分布し、私の郷土伊豆地方
にも多く、少年の頃、拾い集めてよく食べた思い出がある。元来は救荒食物。生食よりもいったほうが香りがあり、
うまみも増す。しいの木はしいたけの原木に用いられる。」
このような記述はあったものの、伊豆のどこかはわからず、

書下ろし長編自伝
『海へ』田村魚菜(著)
を取り寄せ、まず帯に書かれた
「学歴なき人生の海へ
少年は貧しさの故に進学の望みを絶たれた。
やがて板場の下働きを振り出しに、料理という人生の海に挑んだ。
ひたすら向上を求めて闘った一人の男の生き方を、共感あふれる筆致で綴った書下ろし長編自伝」

を読み、感動しました。
表紙を開き、サインに感動。

「まえがき
どういう運命のめぐり合せか、今考えてみてもわからない。何故こんな職業を結果的に選んだのかもわからない。
運命の手の導きとしか思えないのである。
私は、伊豆の片田舎の高等小学校を出て、すぐ働きに出た。
だから、私は、自分が生れ育った家庭に、子供を上級学校に学ばせられる程度のゆとりがなかったことを、痛切に恨んだ。
父母の縁類に、社会的に力のある人がいなかったから、良い伝手を頼って世の中に出るというスタートとも、私は無縁だった。
学歴とコネクションに背を向けられた十五歳の少年が、自分の出世を不幸だったと、歯がみして嘆いたとしても、誰も責める
ことはできないだろう。
「大学を出ていればなあ…」と何度思ったことだろう。
しかし、このみじめなスタートと、山坂だらけのコースが、私に、料理の道へ辿りつかせてくれた。今、私はそれを自分の
幸運だったと思う。運命の手に感謝を惜しまない。(中略)

思えば、まことに波乱に富んだ六十五年であった。私は、いま闘いを終って、静かなこれからの人生に思いを馳せている。
海辺の寒村に生れ、ただ人に負けじと、都会の坩堝の中を駆けめぐった男の安息の場は、やはり海しかないように思う。
書名を「海へ」としたゆえんである。」
に感動。

本文の書き出し
「一九一四年(大正三年)の十一月二十三日が私の誕生日である。出生地は伊豆半島の小漁村宇佐美。」
そこでやっと宇佐美だと判明しました。

最後の方で、私が買い求めた『料理大事典』は
「この事典は、言うならば、私が築いた人生に、自分で贈る手製の勲章のようなものだと思っている。」
そして10年もの月日がかかっていると知り、大切にしようと思いました。

昨年暮れに、おせち料理の材料の買い出しへ行った際、
「作らなくても何でも買えるな〜」
と一瞬思ってしまいましたが、「だめよ、だめ、だめ」と自分を戒め、どうにか自分で作って、重箱を埋めました。

何でもお金で解決しようとする政治や世の中の風潮に抗いたい思いもありました。

これからも、『食』を大切に生活したいと思いました。

『海へ』は
「料理という山坂を登り続けて、いま思うことは、何はともあれ、思いやりのある心豊かさと努力に倦まない信条が、
一本筋金として通っていることが、欠かせない条件ではないか、ということである。
これが私の心の基盤であった。そして、これはそのまま料理の道一筋に歩いてきた私の遺言であり、哲学である。」
と締めくくられています。



                               (下田市在住 佐生綾子さん)



         
「読書習慣が教育格差を無くす」

2015年1月14日の全国紙の記事
『愛読書の魅力を語る「全国高校ビブリオバトル」で優勝した中村朱理さん(17)
推薦する本の魅力を訴え、読んでみたいと思った観客からの投票数を競う「ビブリオバトル」。
直木賞作家の辻村深月さんの小説「冷たい校舎の時は止まる」(講談社)を紹介し、高校生大会で全国優勝した。
日本大学三島高校(静岡県)2年。
「得意なことがなく、1番になれるものがない」と悩んでいた中学2年の頃、この本と出会った。
作品には同じような悩みを抱える高校生が登場する。「私だけじゃないんだ」。そう思うと前向きになれた。
「おとなしくて目立たない」が自己分析。でも、「本好きの自分ならできる」と信じ、初の大舞台に臨んだ。
原稿は、携帯電話のメモ機能を使って書き上げた。
「ワクワクして楽しかった」。大好きな本の魅力を伝え切った満足感に声を弾ませた。(後略)』
を読み、ビブリオバトルは以前からとても気になっていたので、三島の高校から全国優勝者が出た事に、とても感動しました。

娘が通う高校でもやってくれないかしら…と以前から密かに思っていました。

私もこの原稿を写真を入れ始めた時から、携帯電話で作成していて、「ワクワクして楽しかった」にとても共感しました。
やはり好きな事をしている時間は、ワクワクします。

1月16日の全国紙の記事
『第152回直木賞に決まった西 加奈子さん(37)
(前略)「なんで私は私なんやろって、書いてきた気がします。」
その根っこは、カイロで過ごした少女時代にある。
駐在員の娘としての豊かな暮らしと、現地の子らの生活との格差を前に抱いた罪悪感。
「私と彼らは何が違うの?私が彼、彼が私だったかもしれないのに」
誰も他人にはなれない。ただ、懸命に想像はできると、数年前拾った猫に教えられた。
「何もしゃべらへんから、私がこの子に一番やと思うことをするしかない」。小説も同じ。
「いいと思うことを全力で書くだけです」』
にとても感動しました。

私は娘が下田高校から持ち帰る「図書館だより」を楽しみにしています。

昨年1月号に五木寛之さんの「人物探訪」がありました。

「下高生のみなさんは「愛読書」を持っていますか。何年間かその作家の作品を継続して読んでいる、
その作家の生き方・考え方、言葉の群落によって創造された芸術の世界に傾倒している、そんな作家を
もっていますか。それがこの後も続き一生を通じて語り合える、高校時代にそんな作家に出会えたら最高ですね。
昭和から平成にかけての日本を代表する作家なので知っている、読んだことがあるという人も多いと思いますが、
私にとってそんな作家・先哲になりつつあるのが、福岡出身で朝鮮から引き揚げの経歴をもつ作家「五木寛之さん」です。』
と紹介されていました。

五木寛之さんは私が好きな作家の一人です。

そして、下田に移住して間もない12年ほど前に、南伊豆で行われた五木寛之さんの講演会に幼い子供2人を連れて行き
(静かにしていてくれるかしら…)とドキドキしながら聴いた事を懐かしく思い出し、感動が蘇って来ました。

「隣の芝生が青く見えても、皆それぞれに人には言えない苦しみや悲しみを抱えて生きています。」

そのような言葉が心にずっと残っています。

1月20日に今年初めての読み聞かせで稲生沢小学校の1年生のクラスに行きました。

本を読む前に、私は昨年12月にいただいた「石橋湛山平和賞」の賞状を見せて、
「私は読むこと、書く事が大好きなので、今年も頑張ります。」
と話し、新聞の広告『将来の学力は10歳までの「読書量」で決まる!』を見せて
「みなさんは今何歳ですか?」「7歳」「それならまだ3年もありますね!これからもたくさん本を読んでくださいね!」
と話すと、大きく頷いてくれる子や、「ハイ!」と元気に返事してくれる子がいて、感動しました。

また、「私は読むこと書く事をしている時、とてもワクワクします。きっとワクワクする事を仕事にできたら一番幸せなのだと思います。
みなさんもこれからたくさんワクワクする事を、見つけてください。」
とも話しました。

私も「読書習慣」をつける事が、「教育格差」を無くす一番良い方法だと感じていました。

「やってみせ  言って聞かせて  させてみて  ほめてやらねば  人は動かじ」

山本五十六(いそろく)
     (日本の海軍軍人)




                               (下田市在住 佐生綾子さん)


      
「自助の教え〜意外な繋がりにワクワク〜」

昨年12月の伊豆新聞記事、
『中村敬宇「自助」の教え
郷土にゆかりの偉人について学んでもらおうと、伊東市立宇佐美中の杉本博昭校長は22日、
2学期終業式の中で明治の啓蒙思想家中村敬宇(本名・正直、1832〜91年)をテーマに講話した。
敬宇の功績に加え、遠い親戚にあたる小説家川端康成の揮毫(きごう)で「天は自ら助くる者を助く」
と刻まれた顕彰碑が国道135号沿いに建つことも紹介。
「福沢諭吉と同格のすごい人が宇佐美から出ている。そのこと覚えておいてほしい」と呼び掛けた。
敬宇の父が宇佐美出身で、敬宇自身は幕府が開く昌平坂学問所で学び、教授も務めた。その後幕府の
遣英留学生の監督として渡英。
帰国の際、友人からサミュエル・スマイルズの著書「セルフ・ヘルプ(自助論)」を譲り受けた。
杉本校長は、同著の中の一節「天は自ら助くる者を助く」の意味について「天は何事をするにも他人を
頼らないで自分自身の力だけで努力する人を応援する」と説明。「幕府が崩壊し、真面目さ、努力、
忍耐力などがあれば成功できる社会に変わった。敬宇は自助の考えで若い人が頑張れば、日本は英国
に追いつき一流国になると考え、『セルフ・ヘルプ』を翻訳し『西国立志編』として出版した」と語り、
自ら入手した「西国立志編」の初版本(1871年発刊)を生徒たちに示した。(後略)」
にとても感動しました。

「天は自ら助くる者を助く」サミュエル・スマイルズ
は一昨年の私の手帳に書き留めてあったので、ピピッときました。

その頃から「自助論」を読みたいと思っていたので、これを機に「西国立志編」を読み始めました。

「まえがき」渡部昇一氏の
「今日本は、不景気だと言われ、何かにつけて政府から施し物をもらおうという気風があります。
その中にあって自らを助けようという気概を持つ人が減れば、すでにスマイルズが150年前に指摘したように、
国力は減るのです。また逆に、自助努力する人の数が多ければ、その国、その社会も栄えるのです、
これは人間の世界の変わらない鉄則であると思うのです。」
にとても共感し、本文の
「国家の政治は、その国の人民の一人ひとりのあり方を合算したものが、光として反映されたものだ。
おそらく、人民が政治の実体であって、政治は人民の姿の影である。
たとえば、ここに一つの国があって、人民の品行が劣悪であれば、一時その国の政治が優れていようとも、
必ずやすぐにその政治は悪化して人民と同じ水準になってしまう。
また、ある国で人民の生活水準が優れていれば、一時その国の政治が劣悪であろうとも、すぐにその政治は必ず発展し、
民と同じ水準になるはずである」に感心しました。

135号線沿いの顕彰碑も実際に見て、今まで何度もこの前を通過していながら、知らなかったな〜と思い、
新聞を読み直しあの記事を見つけて、本当に良かったと思いました。
とても大きな碑でした。
川端康成の揮毫も実際見てとても感動しました。

妹が横浜の生麦駅のすぐ近くに住んでいるので、「生麦事件」について調べていて、「中村敬宇」の名前が出てきて驚きました。
タイミングのよさに。

「生麦事件」とは
幕末の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)
付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が
殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。
尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)
が起こった。事件の石碑は、京急本線生麦駅近くに残っている。」

「その碑には、中村敬宇の作った荘重な古詩体が碑文に刻まれている。」に驚きました。
この碑も実際見て感動しました。
意外な繋がりにワクワクする日々です。



 
※左一枚が生麦事件の碑、他は「天は自ら助く者を助く」の碑です。

                               (下田市在住 佐生綾子さん)



         
「子供達をぎゅっと抱きしめる」

1月5日仕事始めの日、稲生沢保育園のホールで不思議で素敵な音楽会が園児の保護者のご紹介で行われました。
「戦争が無くなるように祈りを届ける音楽会」そんな感じでした。
縄文時代に使われていた笛や世界に一つしかない楽器など、今まで見たことがない楽器を一人で操る姿に感動しました。
「音楽は食べ物と同じように栄養になります。音楽の神様に感謝しましょう。」
と教えていただきました。

その日の夜の食事会で、一人ずつ、今年の抱負を言う事になりました。
私は「幼児虐待などのニュースがどんどん増える世の中を、とても悲しく感じています。私が最近実践している事は、
子供達を、ぎゅっと抱きしめる事です。それをするようになった理由は、ある文を読んだからで…」
と読んだ文のほんの一部を話しました。
その全文が次の文です。

『「よぶこえ」第78号【この国の民度が問われている】2012・12・10

「生命尊重ニュース」の12月号が送られて来ました。
発行は、生命尊重センターです。
のらねこ学かん館長の、塩見志満子さんが、「ある小学生の夢」と題した文章を載せておられます。

衝撃的でした。
そして思ったこと。
「この国の民度が問われている」

『私は38年間、高校と支援学校の教員を勤めました。
4人の子どもを生み、
2人の息子を亡くしました。

私は人生で地獄を見たことから、のらねこ学かんを作り、日本中にお話に行かせて貰っています。

小学校で講演を終えて帰ろうとした時、
運動場に追っかけてきた小学1年の男の子が、
「おばちゃんは夢を見て生きろと言った。僕のたった一つの夢を聞いてほしい」
「僕、大人になって結婚して子どもができたら、その子どもを殺してから死にたい」
私は驚きました。

そして、
思わず運動場に坐って、その子を抱きしめたんです。

そして、
「来年も絶対来るから、おばちゃん何年もあんたに会いに来るから」
と言ったら、
その子はポロポロ泣きながら言いました。
「僕は生まれて初めて大人のおばちゃんに抱かれた」って。

校長先生にその話をしたら、
「今、この学校に40人はそういう子どもがいます」と。

何かを殺したい、
誰かをいじめたい、陥れたい、そんな夢を持って生きている子ども達。

小さいときに虐待を受けて、
一度も両親に抱きしめられたことがない。

親が殴る蹴るのは当たり前な子どもです。

こういう教育をしたのは誰ですか?

私は、「塾へ行って、成績を上げて、いい大学へ行けば、あなたは幸せになる」
「どうして兄ちゃんは頭がいいのに、あなたはダメなの?」
そう言って、子どもを他人と比較し、叱咤激励した教員です。

そして日本はこんなひどい国になりました。』

この方の自己批判を含めて、読みながら涙を禁じ得ませんでした。

そうして思いました。
総じて、この国の民度が問われている…と。

これはどう考えても、
小中学校でなされている「道徳」の範疇を超えている。
学校で言われている「人権教育」の範疇も超えている。

やはり、この国の「民度」が問われていると言わざるを得ません。

広辞苑で言うところの、「人民の生活や文化の程度」が問われています。

塩見さんは、下の息子さんを、ある事件で亡くします。

絶望と憤りに取り乱す塩見さんに、彼女の夫が言います。
「犯人を見つけ出すのはやめようよ」と。
『見つけても死んだものは帰らない。
その子は友達を殺した罪を背負って生きないとならないんや。
殺人を犯した子どもを育てる親の身になってみいや。
一生、その子どもを育てないかん。』

それが、塩見さん言うところの、「地獄を見た」ことなのだと思います。

友だちから受けた心の傷のために、
毎日、毎日、死にたい、死にたいと思っていた中学生から、塩見さんがもらった手紙が紹介されています。

『母にそう言うと、母は泣きながら、
「そんなに死にたいなら、私を殺してから死になさい。
あんたは私の宝で、私の命だから、私より先に死なせはしない」
と言いました。
友達に裏切られ人間不信に陥っていたけど、その母の言葉を聞いて、
綺麗ごとでは言えない、生んでくれた母の愛を感じることができました。』

この国の民度が問われています。
でも、この国の民度をかろうじて支えているのは、誠実に生きる、名も無き一人一人なのです。』

私は以前ある月刊誌で、のらねこ学かん館長の塩見さんの事が書かれた文章を読み、驚愕し、感動しました。
「息子さんを殺した犯人を捜さなかった」話しです。
塩見さんの事をもっと知りたいと思いパソコンで調べていて、このブログにも辿り着きました。
驚きと感動を覚えました。
それで私は、子供達をぎゅっと抱きしめる事を始めたのです。
0・1・2歳の子どもの記憶には残らないかもしれませんが。
子供達の明るい未来のために、これからもできる事を探していこうと思っています。

アバの「サンキュー・フォー・ザ・ミュージック」は、私の大好きな曲です。




                               (下田市在住 佐生綾子さん)



         
「松陰先生の教え」

元旦の全国紙に載っていた吉田松陰が日本大学の学祖・山田顕義に授けた人としての道。
「人とは異なる高い志を立てよ。俗流(高禄に執着する者)は共に論ずるに足らない。彼らは自己一身のことのみを考え、
自分の死後も引き継がれるべき仕事は考えず、目先の安楽のみ追い求めている。
100年という年月も実は悠久の歴史から見ればほんの一瞬にすぎない。
君子たるもの粗餐(功労がないのに高位高官につく)してはならない」
を読み、感動しました。
また、違う企業広告の
『「正月には本を読みなさい」松陰先生の教えは、いまも、こどもたちの中で生きています。
山口県萩市。吉田松陰や高杉晋作を生んだこの街は、伝える、ということを、宝もののように大切にしてきた街です。

「正月はいづくにもつまらぬ遊事をするものに候間
夫れよりは何か心得になる本なりとも読んでもらひ候へ」

これは吉田松陰が二歳下の妹に宛てた手紙の一節。
幼い頃から学問に明け暮れ教育者として多くの若者を育てた松陰先生らしい助言と言えます。』
にもとても感動しました。

昨年11月に息子と下田市蓮台寺にある「吉田松陰寓奇処」を見学して、吉田松陰が隠れていた場所を実際に見て、
説明をしていただき、とても感動しました。
改めて吉田松陰の凄さを学びました。
説明していただいた、長谷川さんが息子に、「若い方が来てくれると嬉しいわ!」と言っていましたが、
近代日本史を子供達がきちんと教育されていない事が問題視されていますが、私も問題だと感じます。
若者に日本史に興味を持って欲しいと思います。
知れば知るほど…
23年ぶりの大工事で葺き替えられた茅葺き屋根も、素晴らしいと思いました。
車で5分のところにこのような歴史遺産がある事を嬉しいと思います。

息子や娘に、「もっと読書をしなさい。」とついつい言ってしまいますが、今日届いたメール『今日の言葉』を見て納得しました。
わかってはいるのですが…

「この世でなんとかなるものはたった一つ自分のことだけ。自分が信念を持って自分を変えると、まわりも変わりだす。」
森昭(竹屋町森歯科クリニック院長)

ラジオからアバの「ハッピーニューイヤー」という曲が、流れてきて、とても素敵な曲で好きになりました

2015年が伊豆にとって善い年となりますように。



                               (下田市在住 佐生綾子さん)



          
「アーミッシュに憧れて」

年末の片付けをしながら、以前下田の河内に住んでいた時、お願いされて毎年寄稿していた『河内文芸』を
懐かしく読みなおしました。2008年に書いたものに改めて考えさせられました。

『アーミッシュに憧れて

  私が、その人達の存在を知る事となったのは、2006年10月8日の読売新聞の記事でした。
『13歳の少女「私から撃って、ほかの子は解放を」アーミッシュ射殺事件、米東部ペンシルベニア州ラ
ンカスター郡あるキリスト教の一派アーミッシュの小学校で2日、女子児童ら5人が近くに住む32歳の
運転手の男に射殺された事件で、死亡した13歳のマリアン・フィッシャーさんが年下の仲間を救おうと
「私を最初に撃って、ほかの子たちは解放して」と訴えていたことが分かった。ロイター通信などが6日伝えた。』
記事の上部に載せられた葬列の写真は、映画のワンシーンのような馬車の葬列でした。
彼等は今でも馬車が日常なのです。
この記事を読んだ感想は、私の心の中にインプットされたまま眠っていたのですが、最近河津図書館で
「アーミッシュに生まれてよかった。(児童書です)をみつけて、その感動が目覚めました。
  読んでみて、アーミッシュのことが少し解ったと同時に、その生活様式が私は羨ましく思えてきました。
電気も引かず、自動車を使わない生活が。ラジオを所有することへの子供達の憧れと、ラジオは罪深いもの
だと考えるアーミッシュの親とのやりとりが主な内容でしたが、ケティという主人公の女の子の母親が言った、
「神様のことをよく考え、神様を愛し、アーミッシュの仲間を愛するならば、アーミッシュが持っていけない
ものを欲しいと思う気持ちはなくなるものよ。
本当に美しいものは、たとえば夕日の赤い色や、そよ風に揺れる麦の波よ。それからいっしょうけんめい働けば
決してお腹をすかしたままにはならない、ということがわかって心が安らかになるわね。この心の安らぎこそ
本当に美しいものなのよ。」がとても印象に残っています。
  ラジオを一つ所持する事に、これだけ真剣になるとは、私達とは次元が違いすぎると感じながらも、
流行に流されない強さを羨ましく思いました。
  訳者のあとがきに、『アーミッシュ宗派の人たちは、一つの基準を持っています。それは聖書の
『テサロニケ人への第一の手紙』の第5章21節にある「すべてのものを識別してよい物を守りなさい」
という言葉です。』とありました。
私も聖書をもっているのでそのページを開いてみると、22章に「悪はどんな悪でも避けなさい」と続けていました。
「下田でアーミッシュになろうか、馬車に乗ったりして…」
と息子に冗談を言うと、一言
「馬が可哀想だ。」
そうか、馬が可哀想か…。
変に納得した私ですが、今の時代息子にテレビゲームの類を与えず戦ってきた事は、ある意味でアーミッシュ
に近いかな?と自負しています。』

あれから6年経った2014年の5月、アメリカに行き、憧れのアーミッシュに実際会えた事は、
一番の喜びだったと思います。
帰ってから伊豆新聞に載せていただいた投稿も読み直しました。

『文明の恩恵拒む人々

5月14〜24日に米国へ行った中の1日、宿泊したニューヨークの都会の中心から、鉄道とバスでペンシルベニア州
ランカスターのアーミッシュ村へ行きました。
「アーミッシュ」とは「現代文明を象徴する米国に住み、その文明の恩恵を拒み絶対平和主義を貫き、権威や偶像を
認めず、家族や隣人との絆の中に生きる敬虔なキリスト教徒」(アーミッシュもう一つのアメリカ・菅原千代志著)
この本を何年も前に読んでから実際に会ってみたいと思っていた夢が叶いました。
大きな道路をバスや大型トラックが猛スピードで走る端を馬車が走っている光景は、実際に見て感動すると同時に
アーミッシュの憂いを感じずにはいられませんでした。
「家族の絆を何より大切にし、人間関係を損なうと考えられる現代文明を拒否する。自然と共存しながら手作りの
道具で暮らすアーミッシュの人々のシンプルな生活には、私たちが失ってしまった穏やかで豊かな人間性が感じられる」
と前述の本にあった通り、私も感じました。
教育も自分たちのコミュニティーの中で行い、社会保障も享受せず生きる人々の凛とした姿を実際に見て、
経済成長を求め続けて来たわが国の、さまざまな問題(人口減、少子化、財政難など)は必然であると思いました。
アーミッシュの家族では子どもが7、8人は今でも当たり前のようです。』

「アーミッシュ  もう一つのアメリカ」の記述
「私達は何かを手にすることで懸命だった。多くの利便さと快適さを求め、その見返りに失うものに気づこうとも
しなかった。いや気づきたくないというのが本音かもしれない。食料危機だとか環境破壊、悪質ないじめといった
問題はその延長にあると言えるだろう。いま目の前にある文明の利器が、将来私達を脅かす武器にならないと誰が
保証できるのだろうか。」
は私の心に残っています。

下田の西中の教会に何年か前からいらしているキャロルさんは国際基督教大学で長年講師をされていた方で、
アーミッシュの事もよく知っていて、そんな方と下田で会えるようになった事に改めて感動を覚えます。



                               (下田市在住 佐生綾子さん)



         
「嬉しい便り〜独学は楽しい〜」

12月23日に伊豆急行蓮台寺駅から甲府の往復の電車の中で読んだ、「闇を裂く道」吉村昭(著)にとても感動しました。
先日全国紙の記事で、「丹那トンネル80年で講演  難工事後世に」の中に
「丹那トンネルは約7800メートル。1918年(大正7年)3月に着工し、16年の歳月を費やして
34年(昭和9年)12月1日に開通した。難工事による殉職者は67人に及び、熱海側入り口上部には
殉職者全員の名が刻まれた慰霊碑がある。特に21年4月のトンネル内部大崩壊では16人が犠牲となった。
工場の経緯については吉村昭著「闇を裂く道」(文春文庫)に詳しい。」
を読み、取り寄せていました。
今まで電車に乗っても感じなかった感謝の気持ちが、特に熱海・三島間を通る時、湧きました。
本当に大変な工事であった事を知りました。

甲府へ行く目的は、授賞式に出席する為です。
嬉しい便りが届いたのは、11月26日でした。
山梨平和ミュージアムが募集した、「第3回石橋湛山平和賞」で、私の文章が「佳作」に選ばれた。
という知らせでした。

私はやっぱり、「書く事」「読む事」が一番好き。と気づいて、寸暇を惜しんで読み書きをしていた時の知らせで、
とても嬉しく思いました。

「アメリカ旅行と聖書と石橋湛山」
の題名で、原稿用紙40枚分書いて送付したものでした。

「山梨が生んだ偉大な言論人
石橋湛山1884(明治17)年〜1973(昭和48)年
生まれは東京だが、増穂・鏡中条・甲府で育ち、中学時代(現甲府一校)に大島正健校長の感化を受ける。
  早大を出て『東洋経済新報』の記者ジャーナリストとして、大日本主義(帝国主義)に抗して
平和・民権・自由主義の論陣を張った。
戦後、政治家として第55代首相に就任し、期待されたが、病のため2ヵ月で退陣。
徹底した平和主義、リベラルで強靭な個人主義など学ぶべきところ大である。」
(山梨平和ミュージアム  石橋湛山記念館パンフレットより)
授賞式の前に「山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館」
を見学していて
『「石橋湛山宛書簡」1957年6月、湛山が聖路加国際病院を退院後、当時主治医だった日野原重明先生
が湛山にあてた書簡』の中に「本日新聞のニュースでは、伊豆から御上京のことが報道されていましたが…」
の記述を見つけ、感動しました。
「石橋湛山は1946年3月の衆院選で、最初山梨からの立候補を考えたが実現せず、東京選挙区から立候補
しましたが落選、しかし、吉田首相の依頼で吉田内閣の蔵相に就任。1947年4月の選挙では、蔵相として
人気の高かった湛山に静岡2区の代議士・佐藤虎次郎が自らの選挙区からの立候補を勧め、みごとに当選します。
以後、1956年の首相就任時も含め、1963年まで静岡2区から当選し、衆院議員として活動を続けた。」
を知り、伊豆にもとても関わりのある方である事を知り感動しました。

授賞式では、直木賞作家の出井孫六氏から賞状をいただき、講演も聴け、感動しました。

また、石橋湛山記念館理事長、浅川保 氏はじめ、日本の将来を「今のままではだめだ」と真剣に考えている方々
との出会いに、とても刺激を受け、遠かったけれど、行って良かったと思いました。
同じ佳作を受賞した東大生は息子とほぼ同じ年の好青年でしたが、東大大学院に進むとの事でした。
「子供の頃ゲームはさせてもらえなかった」を知り、「私の息子も!」と言ってしまいました。

浅川氏に今日の出来事を、何かに繋げる行動を起こす重要性を教わりました。
浅川氏の著書「偉大な言論人・石橋湛山」も購入したので、もっと石橋湛山の事も知りたいと思います。

独学は楽しいです。



                       (下田市在住 佐生綾子さん)

        「上原近代美術館に感動」

12月12日に上原近代美術館へ行きました。
10月18日に下田セントラルホテルで行われた講演会、
「画家と音楽のものがたり‐ルドン、シャガールを中心に‐」講師 小林旬 氏に行った際、
招待券をいただいたのが14日までと気づき、娘と行きました。
講演会では、画家に対する音楽の影響を解説していただき、とても勉強になりました。

美術館では、クリスマス前でもあり、ジョルジュ・ルオー《キリスト》や
《キリストとの親しき集い、ベタニヤ》に感動しました。
そして帰りに購入した「コレクターのまなざし展モネ《雪中の家とコルサース山》を囲んで」
の冊子の中で、《キリスト》はルオーの次女イザベル・ルオー氏が愛蔵した末に譲り受けたなど、
画家の家族との交流から実現したコレクションであると知りました。

冊子に書かれた、平成12年3月には私財を投じて美術館を設立し、
約40年にわたって収集・愛蔵したコレクションをまとめて寄贈し、
上原近代美術館が伊豆・下田の地に開館した。を読み、感動しました。

パソコンで調べる中で、『これら財団法人の設立は、平成8年8月に他界した
故・上原小枝名誉会長が常々申しておりました「何か人の為になる事を 心がけるべきである」
という考えが具現化したものの一つです。』を知り感動しました。

私がもし、投じるほどの私財があったなら…下田に大きな図書館を作りたいな…。
家から車で15分の所に、こんなに素晴らしい美術館がある事に、
何度か来た事はありますが改めて嬉しく思いました。購入した冊子の中に、
志賀直哉などの文学者の名前が出て来て、美術と文学者との関係を知り感動しました。

志賀直哉は最近とても興味を持った作家でもあったので。
数日後「絵画に魅せられて‐上原昭二とコレクション‐」上原昭二(著)も購入してしまいました。
とても素晴らしい本です。

12月16日からの「旅へ誘う絵画‐洋画家たちの足跡をたどって‐」も鑑賞したいと思います。
12月22日の伊豆新聞記事『画家たちの書簡 上原近代美術館来月1日から展示。
下田市宇土金の上原近代美術館は1月1〜7日に、小企画展「画家からのたより」を開催する。』
を知りワクワクしました。絶対に行こうと思います。




                       (下田市在住 佐生綾子さん)



        
「与えられた縁をどう生かすか」


職場の保育園で園長先生の弾くピアノの讃美歌
「ああベツレヘムよ」が聞こえてきて、私はクリスマスの讃美歌の中でもこれが一番好きだな…と思いました。
聴いていると心が穏やかになって、世界平和を祈りたい気持ちになります。

クリスマスも間もなくやってきます。
以前読んだ本
「心に響く小さな  5つの物語」
藤尾秀昭=文  片岡鶴太郎=画
の中の下田出身の文学博士でクリスチャンでもある、鈴木秀子先生がしたというお話しに、
とても感動した事を思い出しました。

『「縁を生かす」
その先生が五年生になった時、
一人、服装が不潔でだらしなく、
どうしても好きになれない少年がいた。

中間記録に先生は
少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。

ある時、少年の一年生からの記録が目に留まった。
「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。
勉強もよくでき、将来が楽しみ」
とある。

間違いだ。他の子の記録に違いない。

先生はそう思った。

二年生になると
「母親が病気で世話をしなければならず、
時々遅刻する」
と書かれていた。

三年生では
「母親の病気が悪くなり、疲れていて、
教室で居眠りする」

三年生の後半の記録には
「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、
四年生になると
「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、
子供に暴力をふるう」

先生の胸に激しい痛みが走った。

だめだと決めつけていた子が突然、
深い悲しみを生き抜いている生身の人間として
自分の前に立ち現れてきたのだ。
先生にとって目を開かれた瞬間であった。

放課後先生は少年に声をかけた。

「先生は夕方まで教室で仕事をするから、
あなたも勉強していかない?
わからないところは教えてあげるから」

少年は初めて笑顔を見せた。

それから毎日、
少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。

授業で少年が初めて手をあげた時、
先生に大きな喜びがわき起こった。
少年は自信を持ち始めていた。
クリスマスの午後だった。
少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。
あとで開けてみると、香水の瓶だった。
亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。

先生はその一滴をつけ、
夕暮れに少年の家を訪ねた。
雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、
気がつくと飛んできて、
先生の胸に顔を埋めて叫んだ。

「ああ、お母さんの匂い!
きょうはすてきなクリスマスだ」

六年生では先生は少年の担任ではなくなった。
卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。

「先生は僕のお母さんのようです。そして、
いままで出会った中で一番すばらしい先生でした」

それから六年。またカードが届いた。

「明日は高校の卒業式です。
僕は五年生で先生に担任してもらって、
とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって
医学部に進学することができます」

十年を経て、またカードがきた。

そこには先生と出会えたことへの感謝と
父親に叩かれた体験があるから
患者の痛みがわかる医者になれると記され、
こう締めくくられていた。

「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。
あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。
大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、
五年生の時に担任してくださった先生です」

そして一年。
届いたカードは結婚式の招待状だった。

「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。』

藤尾秀昭氏の言葉にも改めて感動しました。
「たった一年間の担任の先生との縁。
その縁に少年は無限の光を見出し、
それを拠り所として、それからの人生を生きた。
ここにこの少年のすばらしさがある。

人は誰でも無数の縁の中に生きている。
無数の縁に育まれ、
人はその人生を開花させていく。

大事なのは、与えられた縁をどう生かすかである。」

鶴太郎さんの絵も素敵です。

子供の6人に1人が貧困状態のわが国の現状に、目を向ける必要性を感じます。

「人間は自分のためだけに働いていると行き詰まる」
引頭麻実(大和総研常務執行役員)




                       (下田市在住 佐生綾子さん)



          
「書簡発見の喜び」

11月25日の読売新聞1面記事で,
『「谷崎情愛の288通」「細雪」モデル妻・松子らとの書簡
日本近代文学を代表する作家の一人、谷崎潤一郎と、長編「細雪」の4姉妹のモデルとなった
妻・松子やその妹・重子などとの間で交わされた未公開書簡288通が、現存していることが24日分かった。
昭和初期には、谷崎が結婚する誓約書を松子に2度送り、「忠実に御奉公申上べく候」と崇拝の念を記すなど、
社会的にも注目された激しい劇場型の恋愛過程を伝える。谷崎文学の核心に迫る第一級の資料だ。』を知りました。

「谷崎潤一郎」を調べていて
「太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、
軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞、朝日文化賞受賞)」
『細雪』が熱海の別荘で書いたものである。と知り、感動しました。
以前になんとなく読んだ記憶があるのですが、もう一度読み直したいと思いました。

「一高時代、校長の新渡戸稲造と(1908年〈明治41年〉」の写真にも感動しました。

 同じ様な記事で、10月13日の『田中正造書簡  掛川で発見』にも、とても感動したばかりでした。
「日本初の公害事件といわれる足尾銅山鉱毒事件を告発したことで知られる、明治時代の政治家、田中正造が、
親交のあった掛川市の知人に宛てた書簡24通が見つかった。」
田中正造の生き様にとても感動していて、いろいろと本を取り寄せていたところでした。
(まだ積ん読状態ですが…)
 
正造の天皇直訴当時、盛岡中学の学生であった石川啄木は、天皇直訴の報を聞いて、
「夕川に  葦は枯れたり  血にまどふ  民の叫びのなど悲しきや」と、その思いを三十一文字に託した。
とのエピソードに感動しました。

メール社会がどんどん進む世の中、「書簡発見」という喜びが無くなるのは、寂しさを感じます。




                       (下田市在住 佐生綾子さん)



      
「人類愛に満ちた研究者、世界の平和を祈る人、作家そして父」

12月3日の伊豆新聞の
『ただいま雑記  中山千夏』
「怖いと美しいは紙一重」
に感動しました。
熱海の老舗の椿油店「佐藤油店」で行われた写真展の事でした。

 『実はこれ、すべてが道具や生き物にとりついた放射性物質が発する放射線を撮った写真なの。
ううむ、怖い。被写体は2011年3月11日東電フクシマ原発事故の被災地に残された日用品や生き物。
32歳の自称「派遣作業員」加賀谷雅正道さんが、森敏東大名誉教授の大きな協力を得て撮影し、
今年の4月から、東京、福島などのギャラリーで無料公開を重ねている。(中略)
加賀谷さんはブログでこう言う。
「放射線像を通じ、多くの人が放射能汚染の実態を再確認し、今も立ち入りが制限されている
広大な土地とそこから避難された14万もの日本人がいるいること、そして2011年3月に起きた
あの原発事故を忘れないでほしいと私は願っています」
たとえば「2012年9月福島県で採取した野生フキ」の映像(写真参照)。黒い線や点はすべて放射能で、
「土壌から吸収された放射性セシウムが根から吸収されて茎を通って、すべての葉脈と葉肉細胞にまで分布」
しているのが見てわかる。特に中央の小さな新葉の汚染が強い。各所の濃い点々は「放射性降下物による
直接被ばく」だという。ナンベクレルとやらの数字は覚えられなくても、今も汚染が広がっていることは
忘れても、この映像は忘れられないだろう。
人と生体でもこんな写真が撮れたらいいのに!と私は思った』

12月2日〜5日に、娘が下田高校の修学旅行で九州の長崎方面へ行きました。
私は娘に、「私には物のお土産はいいから、脳ミソいっぱいにいろんな事を学んで来て教えて欲しい。」
と伝えました。
娘がグループ行動で始めに行く、「長崎市永井隆記念館」のみやげばなしを一番楽しみにしていました。

永井隆 氏 は(1908年2月3日‐1951年5月1日)日本の医学博士、随筆家。『長崎の鐘』や『この子を遺して』
などの著書がある。

パンフレットをもらって読み、感動しました。

「原爆が投下された時、爆心地近くの長崎医大物理的療法科部長室にいた博士は、猛烈な爆風で吹き飛ばされ、
無数のガラス破片を浴び重傷を負うが、何度も倒れては起き上がり、3日間大学病院内外で救護活動を行った。」
「表彰状   永井隆
常に危険を冒して放射線医学の研究に心血を注ぎ、遂に放射線職業病の一つである慢性骨髄性白血病の犯す
ところとなったが、なお不屈の精神力を振い起して職務に精励し、学界に貢献したことはまことに他の模範
とすべきところである。
内閣総理大臣    吉田  茂  」

『如己愛人』
「わがいとし子よ/“汝の近きものを/己の如く愛すべし”
そなたたちに遺す私の言葉は、この句をもって始めたい。そして恐らく終りもこの句をもって結ばれ、
ついにすべてがこの句にふくまれることになるだろう。」(「いとし子よ」より)
『父性愛』
 「この子を残して…この世をやがて私は去らねばならぬのか!
 母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり
近寄るおさない心のいじらしさ。
  戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命を
この子は知っているのであろうか?…
(「この子を残して」より)」
「ヘレン・ケラー女史が全くなんの前触れもなく如己堂を訪れた。(中略)ケラーさんの手が空気の中を
しきりに私の手を探し求めながら近づいてきた。とうとう届いた。手を握り合った!温かい愛情が電流回路を
閉じたときのように、瞬間に私の五体へ流れこんだ。」
(「いとし子よ」より)

人類愛に満ちた研究者
世界の平和を祈る人
作家そして父

『永井隆博士の生涯』
のパンフレットは、私の宝物になりました。
いつか実際に記念館に行けると嬉しいですが…。
著書も読みたいと思っています。
自分へのクリスマスプレゼントにしようと思います。




                       (下田市在住 佐生綾子さん)



         
「小さなリース」

私が以前読んでとても感動した『小さなリース』絵と文  さかもとふぁみ  を読みました。
ルーマニアで本当にあったお話をもとにつくられた物語です。
「あらすじ」をご紹介します。

「ある国に、とても恐ろしい将軍がいました。名前を「カロル」といいました。
そのカロル将軍はいつも「俺は世界で一番偉いんだ。」と言っていました。
しかしカロル将軍は本当に偉い人とはいえない様な人だったのです。
罪のない人を、牢屋になげこんだりしていたのです。

ある日、将軍が家に帰ると、小さな花のリースが門の前においてありました。
将軍はそれを見つけて、足で踏ん付けたりしたのです。
ところが来る日も来る日も、小さなリースが家の門の前に置いてあるのです。
その贈り主はなんと、小さな女の子でした。
その女の子は、将軍によって、両親がろうやに入れられ、殺されてしまったのだそうです。
しかし女の子は、お父さんとお母さんの教え「あなたの敵を愛しなさい。」ということを守って
カロル将軍にやさしくしてあげようと思い、お花のリースを贈っていたというのです。

このことを知った将軍は、大きな声をあげて、泣き叫びました。
自分がなんて悪い人間だったのか、と罪を悔い改め、ごめんなさい、と何度も何度も言いました。
そして優しい人間になろう、とその日から決心し、その国は平和になりました。」

最後に「これからも優しい気持ちで生活しましょう!」
と言って教室を後にしました。
帰り際、読み聞かせの会「アンデルセン」の代表に久しぶりに会い、立ち話で議論しました。
本を読まない子供が増えている事の問題点をしばし話し、「私達が子供の頃のほうが幸せだったよね…。
できる事をするしかないわね…」で別れました。

職場の稲生沢保育園、ひかり保育園の月1回のお誕生日会が合同で行われました。
稲生沢保育園のホールでコントラバスとビオラとの演奏会がありました。
生演奏にとても感動しました。
「小さい頃から本物を」との園長先生の教育方針は、やはり素晴らしいと思います。

園のパイプオルガンは、「下田まち遺産」にどうなのだろうか?と、密かに考えていました。




                       (下田市在住 佐生綾子さん)


        
「真剣に生きる」

12月6日に下田市吉佐美のシンジ設計事務所内で行われた
進士葉子さんによる「あったか冬のハンドメード展」
に初めて行きました。
今までも何度か伊豆新聞で見る度行きたいと思っていて…。
「東日本大震災の復興支援企画なども行っている」

に特に惹かれていました。
今回「使用済みインクカートリッジを被災地の学校に送る」
を知り、家にあった分を持参しました。

ハンドメードの品々が所狭しと置かれ、とても素晴らしい空間でした。

進士葉子さんに「私は仙台市出身なのでとてもありがたくて」とお声掛けしました。
東日本大震災を風化させないようにとアクションを起こしてくださる事にとても感謝していたので。
ご主人も駐車場係を寒い中されている姿に感動しました。 
私は自分の生活で、精一杯で被災地の為に何もしてあげていないと日頃から思っていました。
そんな私を励ましてくれた言葉があります。

「最も大切なボランティアは、自分自身が真剣に生きるということ」

  池間哲郎(アジアチャイルドサポート代表理事)

これからも真剣に生きたいと思います。
 
外にいた焼き芋屋さんが職場の保育園に通うシン君のお母さんでした。
「素敵なお仕事ですね…。1年中ですか?」
「夏はかき氷屋をしています。」
「かき氷屋」と言えば、よしもとばななの「海のふた」。
よしもとばななさんは、私の大好きな作家の1人です。
そして伊豆にも縁の深い方。
「土肥」が舞台の「海のふた」が映画化され、来年上映を知り、とても嬉く思っています。
見に行こうと思います。



                       (下田市在住 佐生綾子さん)


        
「依田勉三の生涯に学ぶ」

11月30日松崎町大沢にある県指定有形文化財「依田家住宅」見学会に行きました。
依田家住宅は、同町出身で十勝平野開拓の先駆者依田勉三の生家です。
 
「依田勉三の生涯」松山善三(著)を読み終えたばかりの私としては、感動の余韻が残るなか、見学会を知り、心が躍りました。
300年前の建物だと知り、とても素晴らしいと思いました。
無くしてほしくないと思います。
「貴重な歴史の財政として次につなげていきたい」
との橋本理事長の言葉に共感しました。
でもその依田家住宅が今後保存できない状況にあると知りました。
現在の当主は後継者に恵まれず、依田家を守る方がいなくなって依田家住宅も消滅しようとしている。

見学会の中で飾ってあった写真の中に「北海道十勝平野開拓に出発する「晩成社」移民団一行。
の写真を見つけ、感動しました。
「依田勉三の生涯」の記述にあったからです。
そしてそれを撮ったのが、「鈴木真一(1834〜 1918)日本写真の開祖・下岡連杖の高弟。
明治6年、横浜弁天町で写真館を開業。明治天皇の御真影撮影者。佐二平、勉三の叔父。妻みおは西郷頼母の妹。」
下岡連杖との関係にも改めて感動しました。

保存活動をしている方が、伊豆の国市出身の日大の講師で、NPO法人伊豆学研究会理事長。
「伊豆縦貫道私は反対なんです。こんな事言ったら怒られるかもしれないですが。道路ができて便利になったら泊まって
くれるお客さんは居なくなってしまう。観光業は益々大変になってしまう。
でも欲しいと思う人が多いからできてしまうのでしょうけど…」
聞いている人は皆、無言でしたが、私は内心「同感!」と叫んでいました。
でもその無力感にも共感していました。
今の下田の建設予定地は文教区を通り、私が勤務する保育園のすぐ近くを通るのも、反対の理由です。
松崎だけではなく、下田や南伊豆そして伊豆全体の今後を考えておられる橋本理事長の姿勢に、感動しました。
募金を一億円集めて依田家を買得したいと考えているそうです。
買得後の事もいろいろと、学生達と運営する方法など、考えているそうです。
学部長が「ポケットマネーから100万円なら出してもいい」と言ってくれている。
の話に凄いな〜と思いました。
私にできる事を考えようと思います。

『「くじけない人々」  困難に負けない5人の日本人がいた』秋月菜央(著)
を読み感動しました。
5人のうちの一人が依田勉三でした。
「勤勉を家風とするせいか、依田家は発展し、明治を迎えたこの頃、財産は75万円(現在の75億円)ともいわれる、
伊豆でも指折りの資産家となっていた。」

くじけない精神を下田高校の生徒達に、依田勉三から学んで欲しいと思いました。         
「真実はいつも少数派」
湯川秀樹(ノーベル賞を日本人で初めてもらった人)      



                       (下田市在住 佐生綾子さん)


        「子供たちの感性を磨く教育を」

11月25日〜27日に職場である稲生沢保育園で行われた作品展を見て感動しました。
子供達の感性はとても素晴らしいと思いました。
年長組さんが本格的なやきもので、自分の表現したいものを作った作品や、木の板を釘で打ち付けて作った
恐竜や東京タワーなどの大作は、ケガをしながらもノコギリやカナヅチを使う経験ができ、とても楽しそうでした。
他の保育園や幼稚園ではなかなか体験できない事をいろいろ体験させてくれる保育園だと改めて感じました。
陰には先生方のご苦労があるのですが…。

 11月27日の伊豆新聞下田版の記事
「矢田部君(稲生沢小6年)全国2位  海保・図画競技会で協会長賞」の中の矢田部君のコメントに感動しました。
「海に少し潜ると宝石箱のような世界が広がっている。神からの贈り物のようなきれいな海を伝えたいと思った」
その思いが通じての受賞だと思いました。

日本の義務教育が感性を磨く教科の時間をどんどん減らしていく傾向を悲しく思っていました。

教育を考える時、以前読んだ「続・見える学力、見えない学力」(読み、書き、計算は学力の基礎)
岸本裕史(著)の記述を思い出しました。
『40年前、伊豆で開かれた教育科学研究会に始めて参加しました。そのときの講師は東京大学の五十嵐顕先生でした。
「貧しい人や、しいたげられている人が、自由や解放を得られるようになるには、学力が何より必要です。
学力がなければ、いつまでも隷属したままです」と言われました。ほんとにそうだと思いました。』
  そしてこの本の最後には、
「読書好きの子にすること、書き取りの練習を毎日つづけていくこと、計算が正しく速くやれるように、怠ることなく、
こつこつと勉強を積みあげていくことは、テレビや、ゲームや、電卓では、育てあげることのできない心性と人格をつくり
上げていきます。ですから、テレビやゲームは、日に1時間を限度とし、その代わりに読書時間を増やしていくことは、
子どもの知力と品性の成長発達にとって欠かすことのできないひじょうに大切な営みなのです。」
と、締めくくられています。

 先日小学校に読み聞かせに行った際、廊下に布を被せて置かれた、電子黒板を見て
「ちゃんと活用されているのだろうか?」
と疑問を持ちました。
下田市での導入が決まった際、私は反対意見の投稿を伊豆新聞に掲載していただきました。
そして同じ思いの方が後日共感の投稿をしてくださり、嬉しく思いました。

先日、船橋教会の牧師が
「船橋市はまだ黒板でやっていますけどね。」
を聞き、何故かほっとしました。

「さまざまな師の魅力に導かれ、今の自分がある。教育の原点は、やっぱり先生。優れた教材や制度があっても、
先生がそれをどう教えるか。何もなくても、生徒の前に素晴らしい先生が一人立っているかどうか。それに尽きると思います。」
俵 万智(歌人)



                       (下田市在住 佐生綾子さん)


          「自然からの贈り物」

1ヶ月前くらいからだったか、家の屋根に風が吹く度にバラバラと音をたてて落ちるものがありました。
椎の実でした。
4年前この家に越して来て間もない頃、ちょうど今の時期でした。
ある方が、「これをつまみにして、お酒を呑んだ。炒って食べてもいいし、このままでも食べられる。」
と教えてくださったのですが、今まで特に食する事もなく、過ごしてしまいました。
今年は豊作なのか?屋根をバラバラと鳴らす音が、凄く気になりました。
拾って、殻を割って食べると「おいしい!」と思いました。
パソコンで「椎の実」を調べて、更に感動しました。
その栄養に。

『椎の実』というのは、ブナ科クリ亜科シイ属の樹木になる果実のことで、いわゆる「ドングリ」の一種とされています。
通常、ドングリは苦くて食べられないのですが、その中で唯一、食べられるドングリとして知られているのが、
この椎の実でしょう。よく見かけるドングリよりはひと回り小さく、大きいものでも1センチくらいです。
生で食べることもあるようですが、やはり一般的なのは、フライパンなどで炒って食べるという方法でしょう。
また、炊き込みご飯などに用いられることも多いですね。
味わいとしては、“ピーナッツとカシューナッツの仲間”というような感想を持つ方が多いようです。
やや素朴なタイプの味わいですが、それが逆に、椎の実の魅力と言えそうですね。
栄養面を見てみると、デンプン質に富んでいるというのが大きな特徴です。
そのため、昔から“病後のエネルギー源”として好まれてきました。
また「脂質」、「タンパク質」、「炭水化物」といった三大栄養素をはじめ、“ビタミンB1”や“ビタミンB2”
などの「ビタミンB群」、「ビタミンC」、「ビタミンD」、「ビタミンE」、「ビタミンK」、“亜鉛”や“カリウム”
などの「ミネラル類」、それに「食物繊維」など、様々な栄養素が豊富に含まれています。
そのうえ、「コレステロール」はゼロですので、非常に優れた健康食品といえるでしょう。

  先日、牧師夫人に手作りのリンゴジャムをいただいたので、容器をお返しする際、椎の実を入れて、栄養の説明の
コピーと一緒にお返しすると
「まあ珍しい。あまり見た事がないわ。」
と、とても喜んでいただけました。
『 自然からの贈り物』に感動する日々です。

 クリスマスムードが漂う時期になりました。
経済効果目的の日本のクリスマスムードは、私を憂鬱にさせます。

世の中がどうであろうとも、子供へのクリスマスプレゼントは殆どが『本』でした。
 
4月から東京に就職する息子、高2の娘に今年は何を贈ろうか…考えるのは楽しいです。

「読書力がありさえすればなんとかなる。数多くの学生たちを見てきて、しばしば切実にそう思う。」

齋藤孝 (明治大学教授)



                       (下田市在住 佐生綾子さん)


         「いのちを思う、こころを育てる」

11月18日下田市立稲生沢小学校の3年生のクラスに読み聞かせに行きました。
  最近「いのち」について考えさせられていたので、聖路加国際病院理事長で103歳現役医師・日野原重明先生の
『いのちのおはなし』
を選びました。
  日野原先生が30年くらい前からおもに10歳前後の子どもたちにおこなってきた「いのち」についての授業を
絵本にしたものです。
  「いのちってなんでしょう?そう、生きているということですね。
では生きているとは、どういうことだと思いますか?
そして、いのちはどこにあると思いますか?」
の質問の日野原先生の答えは、
『「私はこんなふうに考えています。」といいました。
「いのちは、きみたちのもっている時間だといえますよ。」』でした。
 
ここで、読み聞かせでは紹介できなかった「あとがき」をすこし…
『「いのち」は、だれにも平等にあります。1日1日の時間のなかに、いのちがあるのです。その時間をみんな
のいのちとして、大切にしてほしいのです。いのちを無駄にしないということは、時間を無駄にしないことになります。
  人が生きていくうえで、もうひとつ大事なことがあります。それは「こころ」です。おたがいに手をさしのべあって、
いっしょに生きていくこと。こころを育てるとは、そういうことです。自分以外のことのために、自分の時間を
つかおうとすることです。』
とても感動しました。
「私も善い時間の使い方をしたい」
「私は読書が大好きです」
と、私の気持ちも話しました。
子どもたちが何か感じてくれたら嬉しいと思いました。

  この絵本の絵は村上康成さん、私が大好きな絵本作家です。  伊豆高原に「村上康成美術館」があります。
  最近村上康成美術館のホームページを読んで感動した
「絵本と30年。そして、子どもたちへ」
の一部です。
「ほんと、素直に子どもに願うこと、それは、絶対やらなければならないことがある。からだを使って徹底的に
自然の中で遊ぶこと。たとえば手の中に一匹のカエルがいる。命がある。キミの手は感じている。たとえばそこに、
サルビアの花が咲いている。つんと抜いて、舐めてみる。チョウやミツバチはちゃんと知っている。キミの鼻や舌は
甘いって喜ぶ。朝の冷気、太陽の暑さ、夕立の匂い、夜の闇の色、…。いろんなことを感じたり、考えたりすることって、
キミの全身なんだ、ということ。頭のてっぺんから足の爪先まで、キミなんだ、ということ。全身の毛穴を開いて、
遊ぼう。センサーを磨こう。自然の命をたくさん、たくさん、引継ぎ、どんどん、どんどん、キミはすごい生き物に
なっていくよ。
日本にすばらしい季節という環境がある。世界には想像を超えた大自然がある。とことん、この奇跡の星を体で慈しんでほしい。」

  下田市にも鈴木まもるさんと竹下文子さんご夫妻のようなすばらしい絵本作家がいらっしゃるので、美術館ができたら嬉しいと、
常々思っています。

 「失敗したり悲しい思いをした時こそ、もっと不幸な人の悲しみを分かつことができる豊かな感性が自然と育つ」

日野原重明

最近、今の聖路加国際病院の医院長が、下田出身の方と知り、とても感動しました。


             
                        (下田市在住 佐生綾子さん)

         
 
「依田勉三に学ぶ」

10月12日の伊豆新聞の記事『続  埋もれ日を訪ねてR』「26年間松崎町長発展に尽くす  依田四郎」を
読みとても感動しました。
なかでも、「私財をなげうち松崎の発展に努めた」「38歳。この年齢での町長は異例であったが、四郎の首長
としての資質は誰からも認められていた」「町長の棒給を一度も受け取らず、町政のために多大の私財を提供した。
『町の財政より私の家の財産の方が多くあるから』というのが本人の弁であった」
「同郷の依田勉三、佐二平兄弟らによって、北海道開拓を目的に興した晩成社は、企業的には失敗で、株主
に配当ゼロのまま、資産の切り売りを始めた。佐二平、依田善六、勉三も相次いで他界し、清算人に四郎が指名された。
負債額14万円。その半分以上は銀行からの負債で、四郎の私財を充てての清算であった」読んでいて、
知ってはいましたが依田勉三に改めて興味を持ちパソコンのウィキペティアで調べてみました。
『生い立ち』のなかの「19歳の時に上京しスコットランド出身でスコットランド一致長老教会の宣教師・医師ヒュー・ワデル
の英学塾(ワデル塾)に学び後に開拓の同志となる鈴木銃太郎・渡辺勝と知り合う。その後慶應義塾に進み、同時の
新知識を吸収。福沢諭吉らの影響もあり、北海道開拓の志を立てたが、胃病と脚気のため2年在学の後中退し郷里に帰る。
  明治12年(1879年)に兄・佐二平が提唱した洋学校に渡辺を招き教頭とし1月15日に私立豆陽学校として開校した。
この学校は後に郡立中学豆陽学校と名称を変更した。後昭和24年(1949年)4月に静岡県立下田北高校となる。
同校の同窓会は豆陽会を名乗る。」を読み、「福沢諭吉らの影響もあり」の記述にとても感動してしまいました。
 高2の娘に、「学校の図書室で依田勉三の本を探してきて」とお願いして借りて来てもらったのが、『依田勉三の生涯』
松山善三(著)で、まだ読み始めたばかりですが、とてもワクワクしてきました。
 なかなか読み終わりそうもないので、自分でも本を購入しようと思いました。
 読みたい本、書きたい事が山ほどあるのにその時間がなかなか取れない現実…。
 だから活字離れが叫ばれる世の中を悲ししい事だと思います。
 下田高校を卒業した息子、今通っている娘に聞いても依田勉三の事はあまり知らず、下田北高校と下田南高校が
合併して下田高校になってからは、あまり「依田勉三」の事を教えなくなったようで、残念に思っています。
  昨年から修学旅行が北海道ではなく、九州になってしまった事も残念に思っていました。
 いろいろ調べて見て、依田勉三は帯広の英雄なのだと知りました。
 ウィキペディアに載っていたエピソード、『開拓初期は生活が極端に苦しく、「開墾の始めは豚とひとつ鍋」と称される、
客人が豚の餌と勘違いするほどの粗末な食事であった。』に感動しました。

 11月11日朝ラジオから、依田勉三の生家、大沢温泉ホテルが休業、募金を集めている事を知り、残念に思いました。



                         (下田市在住 佐生綾子さん)


             「一人の青年の死に…」

11月8日と9日に、下田市西中にあるインマヌエル下田キリスト教会で行われた『聖書に親しむ集い』
テーマ「不安な時代にゆるがない人生を(八重も官兵衛も花子もクリスチャン)」に行きました。
  私はクリスチャンなので、普段から聖書に親しんでいる方なのですが、改めて「永遠のベストセラー聖書」
の素晴らしさを感じました。今は日本の人口の1%しかいないクリスチャンも、戦国時代には10%もいた。
  最近、「黒田官兵衛」「八重の桜」など、ドラマでキリスト教ばかりを取り上げてひいきしているとNHK
に苦情が入ったエピソードもきけて、戦国時代に興味を持ちました。
「クリスチャンとしては嬉しい事なのですが…。」
との船橋教会の牧師の話しを聴いていて、私は最近「下田出身の写真の祖・下岡蓮杖」がクリスチャンだった。
と知り、感動しました。
  9日に午前中の礼拝に出席し、一度家に戻り昼食を取り、また教会に出掛けようとした時に息子から
「同級生が自殺した。」と聞き、驚き、悲しみを覚えました。
  息子と同じ、下田高校の卒業生でした。
  私は聖書の中の御言葉の
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、
絶えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、絶えられるように、試練とともに脱出の道
も備えてくださいます。」
を思い出し、私は聖書を読むようになってから、自分の心が以前より強くなっている事を感じました。
 
 私の携帯に、毎朝「致知出版社」というところから、偉人や現在世の中で活躍している方の言葉がメールで
送られて来るのですが、奇しくも9日朝の言葉は、下田北高校卒業生の国際コミュニオン学会名誉会長でクリス
チャンの鈴木秀子氏の『貢献』
「自分の営み一つひとつが、壮大な人類のタペストリーを創造する上で掛け替えのない貢献になっている。」
でした。
 私は持っていた鈴木秀子氏の著書『「奇跡は自分で起こす」幸せになる1ミリの法則』
を読み返して、104ページの「私たちに辛いことや苦しいことがあっても、それは乗り越えていくための
一つの大きなチャンスだということです。苦しみには、必ず、それを乗り越えられる力と恵みが与えられる
といわれます。聖書に、神は「あなたがたを絶えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練とともに、
それに耐えられるよう、逃れる道も備えていてくださいます」とあります。

 小さいことからすべてははじまる

  行く先々で愛を振りまきなさい。/まず自分の家から始め、/子どもたちに、伴侶に、そして隣人に愛をあたえなさい。
/あなたに会いに来る人を幸せな気分にして帰しなさい。/神の優しさをあなたが身をもって示しなさい。/
あなたの表情に、まなざしに、笑顔に、心をこめたあいさつに。
            マザー・テレサ」を改めて読み、感動しました。
一人の青年の死を重く感じ、これからも聖書を読もうと強く思わされた1日でした。



                         (下田市在住 佐生綾子さん)


           「吉田松陰の勇気に感動」

11月1日(土)に下田市民文化会館で行われた下田開港160周年記念講演会「下田で出会う冒険者たち
‐宝島の作者スティーブンスンと吉田松陰‐」講師  よしだみどり氏を聴講してとても感動しました。
以前、伊豆新聞の寄稿を読み「新渡戸稲造と下田の関係」を知り感動し、よしだみどり氏の存在を知りました。
出会いの大切さを話されていて、自分が今ここで講演しているのも、一瞬の出会いがあったからだと。
 神子元島灯台の歴史に感動すると同時に、「そこだけが、イングランドでした。」の言葉に、一度行って
みたいと思わされました。 歴女になりつつある自分を感じました。
 私の好きな歴史学者アーノルド・トインビーの言葉、 「理想を失った民族は滅びる。すべての価値をお金や
物に置き換えて、心の価値を見失った民族は滅びる。自国の歴史を忘れた民族は滅びる。」
も紹介され、感動しました。
  でも、一番感動したのは吉田松陰の勇気です。吉田松陰についてもっといろいろ調べたいと思わされました。

 高2の娘と行きましたが、他に若い方がいなかったようで、残念に思いました。

                          (下田市在住 佐生綾子さん)


           「大丈夫は祈りのことば」

2014年9月6日(土)
長泉町のクレマチスの丘ホールで行われた、映画「大丈夫。‐小児科医・細谷亮太のコトバ‐」
上映会&トークイベントに行って来ました。
細谷先生は聖路加国際病院顧問です。
【40年来、小児がん治療の最前線で子どもたちの“いのち”と向き合いつづけてきた
小児科医・細谷亮太。
その10年間を追ったドキュメンタリー映画「大丈夫。‐小児科医・細谷亮太のコトバ‐」
を製作した映像作家・伊勢真一。親子のきずなを描いたベストセラー絵本『ラブ・ユー・フォーエバー』
を俳人でもある細谷亮太が新訳した『かしの木の子もりうた』に美しい挿絵を描いた絵本作家・
いせひでこ。映画上映後の細谷亮太先生、伊勢真一監督、いせひでこ氏の3人によるトークイベントでは、
映画では語られなかったことや絵本ができるまでのこと、木や自然、そして“いのち”のことを
語っていただきます。】
(パンフレットより)

映画の中で、「医者になりたい」と夢を語って、夢を叶えられずに亡くなってしまう
子どもたちの映像を見て、いのちの大切さを考えさせられました。
細谷先生に「大丈夫」と言われると、本当に大丈夫のようなきがして来ると感じました。
そして私も職場の保育園で「大丈夫」と子どもたちによく言っているな…と思いました。
細谷先生の「大丈夫」とは、レベルが違うのですが。
「大丈夫は祈りのことば」との先生のことばが印象に残っています。
いせひでこさんの「いのちとか死とかを考えられない東京の生活では…」との言葉が印象的でした。
伊勢真一監督の言葉では「情報とは情けに報いること」が一番印象に残っています。

出掛ける前に伊豆新聞で『賀茂圏域  多い自殺防ごう 県、全国平均の2倍』の記事を見た
ばかりだったので、余計に感じる事が多かったのだと思います。同年代の女性が自殺した
事実を職場でも聞いたばかりでした。
サイン会では、間近で細谷先生を拝見して、偉大なのに謙虚な方だと思いました。

下田でも自主上映会をしてもらえると嬉しいと思いました。

一人でも自殺者が減るように。
「生きたくても生きれない命があるのだから、やっぱりあちらからお迎えが来るまでは、生きなければいけない」
細谷亮太先生


   
                         (下田市在住 佐生綾子さん)



           「ハナミズキ」

今年の黒船際の記念式典で、下田開港160周年記念として、米国から下田市に贈られた
100本のハナミズキの植樹式が執り行なわれると知りました。

一青窈さんの「ハナミズキ」の唄が、「9.11」の鎮魂歌であると知ったのは、
つい最近の事で、毎日聴いて感動しています。
下田が黒船祭で盛り上がっている頃、私は娘と、息子の短大の卒業式に出席する為、
ニューヨークの地を踏んでいると思います。
「9.11」の現場にも行く予定なので、世界平和を祈って来たいと思っています。
ただの観光ではなく『世界平和を考える旅』にしたいと思います。
「君と好きな人が100年続きますように」一青窈

                         (下田市在住 佐生綾子さん)


          「土屋典康  作陶展」

5月6日、下田市大賀茂の石塚邸で8日まで行われている「土屋典康 作陶展」へ行って来ました。
石塚邸の存在も初めて知り、こんなところにこんな素敵な空間があったのかと思いました。
土屋典康さんが人間国宝の故島岡達三氏の初弟子で、あると今回初めて知り、改めて作品の
素晴らしさに感動しました。
私には「目の保養」なかなか手を出せない作品ばかりでしたが…
作品が素晴らしいのは勿論ですが、土屋典康ご夫妻の知的さ上品さ、お人柄の素晴らしさにいつも
感動しています。


                            (下田市在住 佐生綾子さん)


「フリーダイビング  インドア カップ 2014 イン
           下田〜 下田開港160周年記念大会」

4月27.28日に敷根プールで行われた2日間のうち、28日に選手として参加しました。
ジャック・マイヨールの最後の愛弟子・松元恵さんに会いたくて、初めて講習を受けてから
1ヶ月足らずで大会に出るとは無謀とも思いましたが、トップアスリートの方が下田に
わざわざ来てくださるし、何よりも松元恵さんが下田を元気にするきっかけになればとの
気持ちに、同じ移住者として、何か協力したい気持ちが強くなり「参加する事に意義がある」
と自分に言い聞かせ決意しました。
水面下のとても地味な競技ですが、久々に自分との闘い、普段なかなか味わえない気分を味わえました。
前日練習会では、トップアスリートの岡本美鈴さんともお話しができ、感動しました。
広島から来た男性選手に「地元枠の初心者で参加させていただきます」と挨拶をすると
「下田でフリーダイビングを広めてください」と言われました。
川崎から来た女性選手には、「下田っていい所ですね!」と言っていただき、嬉しくなりました。
私は42メートル泳いで「ルーキー賞」をいただいき、賞状をもらうなんて何年ぶりだろうと、
とても嬉しかったです。
すぎのこ作業所で作ったトロフィーも、もらえこそしませんでしたが、間近で見られて感動しました。
とても素敵なトロフィーです。
松元恵さんの願いが叶い、下田の活性化に繋がる事を願っています。
大会の現場にいられた事は、本当に貴重な体験でした。
スタッフの方々にも感謝しています。

「限界は遥か遠くにあり  いまはそれを突破する途上に  ある」 岡本美鈴(プロフリーダイバー)



                            (下田市在住 佐生綾子さん)

           
「とら君」

吉佐美のサウスカフェで、アプネア・アカデミー・アジア代表の松元恵さんと4月27.
28日の敷根プールで開催される「フリーダイビング競技大会イン下田」の件でお話し
する為に会いました。 そこに同席していたのが、大会でオープナーを務める為に、
川崎市からわざわざ下田に練習をしに来ていた15歳のとら君でした。
高2の娘とほぼ同じ歳、スマホではなくガラケーを操作している姿に感動し
「まわりは皆スマホではないですか?」と質問すると、「そうですね。でもうちは皆
まだガラケーなので」とまたまた嬉しい返事。「私も娘にスマホを持たせないように、
頑張っているところです」と暫くその話題で話していたら松元さんが「とら君はもうすぐ
スイスに留学するの」と教えてくれて素敵だな〜と思いました。
松元さんからジャック・マイヨールの『「人間が一番悪い。人間がいなければ、
地球環境破壊はない。」と言っていた。』と生前の言葉が聞け共感し憂いを感じました。
「一度、下田で『グランブルー』を上映して欲しいですね!」の私の提案に、松元さん
も同感してくれました。そこで松元さんがお話しできたらと。

フリーダイビング・インドアカップ2014イン下田 下田開港160周年記念大会
の「参加募集要項」の中に「下田は海、山、川、滝などの大自然に囲まれ、温暖な気候
と美味しい海、山の幸、温泉にも恵まれた場所です。また、昔から開国の地とされ、
黒船ペリー来航など歴史上でも重要な役割を果たした土地でもあり、街並にも多くの
歴史が刻まれ、年間を通して関東近県の方々が数多く訪れる人気の高い観光地でもあります。
この大会開催により、選手、スタッフ関係者など、多くの方々が下田を訪れ、
その歴史に触れ、新たな下田を知り、地元の方々との交流を深めていただけたら幸いです。
またそのことがさらに下田を元気にするキッカケになれば大変嬉しいです。」を読み、
感動し、同じ移住者として、何か協力したいという思い、大会の成功を心から願う気持ち
が増しました。
でも、金銭的な事など裏話を聞き、「来年はできるかどうかわからない。」と松元さんに
聞いた時はショックでした。今日はとら君との素敵な出会いに感謝しました。
「このままいけば、自分自身の手で海を汚し、地球の生命を抹消しようとしている
ことになる」「人間は地球上で最も病んだ動物になった」
ジャック・マイヨール

                            (下田市在住 佐生綾子さん)

       
「とても素敵な方でした」

4月5日に敷根公園温水プールで行われた4月下旬に開かれる「フリーダイビング
競技大会イン下田」の地元向けの競技講習会に参加しました。
私の参加の目的は、ジャック・マイヨール氏の最後の愛弟子松元恵さんに会う事でした。
新聞やブログで、お顔は拝見していたのですが、実際にお会いしてとても素敵な方でした。
私の昨年11月の伊豆新聞の投稿のコピーをお渡ししました。
「  松元さん下田移住に思う
 
 
10月に掲載された記事「フリーダイブの第一人者下田に」で、ダイビングスクール
「ビッグブルー」代表・松元恵さんの下田への転入を知った。
  記事中の「フリーダイビングの神様といわれる故ジャック・マイヨールさんと出会い、
トレーニングパートナーとして親交を深めた」という部分に興奮してしまった。
  映画「グラン・ブルー」を見てマイヨール氏の存在を知ってから、尊敬していて
「2001年12月に自殺」ということを知った時はとてもショックだった。
「ビッグブルー」のホームページで「ジャック・マイヨールの『最後の愛弟子』
ビッグブルー代表・松元恵が語る『フリーダイビングの真の魅力に出会うまで』」を読み、
自殺の謎が解けた気がした。

自分の昔の雑記帳を見ていてマイヨール氏の言葉を見つけ釘づけになった。
「空気も水も確実に汚染されている。テクノロジーの進歩によって。人はこれを勝利というが
実は敗北なのだ。私はいつも語り合う。海がこの事を許してくれたらと」
その近くに2004年1月1日移住後初めて仙台へ帰省する伊豆急の中で書いた、
私の日記「今年は自分の思い描くライフスタイルに近づけるように何かをしたいと思った。
多分それは、このきれいな海を守りたい。環境破壊をくい止めたい。子供たちのために豊かな
自然をのこしたい」があった。震災後あらためて読んだ、マイヨール氏の言葉に考えさせられる日々だ。」
読んだ松元さんが、「素敵!」と言ってくださったのが、嬉しかったです。
「とてもわがままな人だったけれど、とても好奇心旺盛な人だった。」の言葉に私は
「今の子供たちが無くしてしまったものですね。」と応えてしまいました。
生前のジャック・マイヨール氏の話しが聞けて、とても感動しました。

下田の活性化のために移住し、尽力している姿に頭が下がる思いです。
4月27日28日の大会が、成功する事を祈っています。
トロフィーを「すぎのこ作業所」にお願いしていると知り、松元さんのお人柄が感じられ、感動しました。
 私もトロフィー欲しいな〜。


(下田市在住 佐生綾子さん)


       
「問題提起」するという事」
 
三島で「神様のカルテ2」という映画を見て、娘の付き添いでしょうがない…。
くらいの気持ちで見たのですが、不覚にも感動してボロボロ泣いてしまいました。
 
「365日24時間営業」の病院が舞台なのですが、患者のために自分の家族を犠牲
にして働く姿、その現状の理不尽さがとても伝わって来て、「病気にならないように
しないと。ケガしないようにしないと。」そんな思いにさせられました。
 
原作者が、現役医師の 夏川草介氏だからこれだけの問題提起ができるのだと、感心しました。
パンフレットに書かれた夏川氏の思い「今回の原作となった物語にはたくさんの思いを
詰め込んでいます。そのテーマのひとつに、医師として患者と家族のどちらを優先させるのか、
ということがあります。私自身、常に家族を優先したいと考えていますが、現場にはそれを
許さない無言の圧力が存在します。患者や、ときには看護師からも、「医師になったからには、
自分の家族のことなど口にするべきではない」とはっきり告げられることもあり、現実は映画
以上に過酷なものです。しかし家族の壊れている医師は、患者に寄り添う心のゆとりなど持ちえません。
医療そのもののためにも、環境が改善されることを願うばかりです。」を読み、感銘を受けました。
心からお勧めしたい映画です。
私は今ちょうど、野草にはまっていて「自分で採れる 薬になる植物図鑑」を愛読していました。
今は家の周りが薬の宝庫に思えて日々感動しています。
最近読んだ本「野草の力をいただいて」若杉ばあちゃん食養のおしえ  に「そもそも『草で楽になる』
と書いて『薬』。草はからだを楽にしてくれるもの。
現代人は、そんな草のチカラを見直していかないとね。薬は、医者からもらうのではなく、
身近な草のチカラでからだを癒やしたり、治したりしていくもの。」を読み、感銘を受けました。
「ヨモギを食べる生活をしていると、血液がきれいになっていく。貧血の人には、増血、つまり血
を増産してくれる作用がある。」今年はヨモギを保存しようと思っています。

「知識を与ふるよりも感銘を与へよ。感銘せしむるよりも実践せしめよ。」坪内逍遥

(下田市在住 佐生綾子さん)


       「セヴァンの地球のなおし方」

3月16日南伊豆町ゆけむりホールで開催された、
南伊豆の映画祭「セヴァンの地球のなおし方」を見て感動しました。

セヴァンさんは1992年、リオデジャネイロで行われた環境サミットで12歳の時、
未来の子どもたちの生活を守るため、自分の発言に責任を持って行動に移すよう地球全体に
「どうやってなおすのかわからないものを壊しつづけるのはもうやめてください!」
と伝説の
スピーチをした方で、私はそのスピーチ全文を本で読み、とても感動したのは、何年も前の事でした。
2月16日三浦半島のイベントにセヴァンさんが来る!と知り絶対行きたいと思っていましたが、
残念ながら行けませんでした。

この映画も鎌倉まで見に行こうかと考えていたので、こんな近くで見られて、感謝でした。
人間が生きて行くために大切なもの「水・空気・土」そんな価値観の持ち主が近くに沢山いる事を心強く感じました。
上映後のディスカッションで、「地球環境を守るため安全な石鹸や洗剤を使う重要性」を話されていた方がいて、
改めて考えさせられました。

これからも、環境問題には責任を持って考えて行かなければならないと、思いを強くしました。
セヴァンさんが子どもたちの未来のために地球環境を守ろうとする勇気に、私も勇気を貰いました。


人々が後世に伝える最大の遺産は「勇気ある高尚な生涯である」内村鑑三

負の遺産はなるべく遺したくありませんね。

  (下田市在住 佐生綾子さん)


      「スミレのように」

今年も庭にスミレが咲き始めました。
私はスミレのひっそりと咲く姿が大好きです。
この家に越してまだ日も浅い頃、東日本大震災が起きました。
自然の脅威に悲しむ気持ちを慰めてくれたのも、スミレやうぐいすの鳴き声など自然だったのを思い出します。
『スミレのように踏まれて香る』渡辺和子 著のなかで「花びらを傷つけられていっそう芳香を放つスミレのように、
人も苦しみを乗り越えて強くなれる」 を読み感動し、ますますスミレが好きになりました。

その中に書かれていた「文明の進歩とともに、人類はだんだん不幸になって行く。
なぜなら、それは近代文明というものが、ただ好奇心のおもむくままに、無軌道に発達していて、
人間のことを考えていないからである」
20世紀のはじめに、ノーベル生理学、医学賞を受けた偉大な科学者、アレキシス・カレル博士のことばに感銘を受けました。


今年は、スミレの花のシュガー漬けを作ってみたいと思っています。

スミレにも薬効が沢山あり、感動しました。

 素敵なお写真ありがとうございました。 (下田市在住 佐生綾子さん)


      「本当の豊かさ」とは

仕事帰りに道端で摘んだフキノトウの天ぷらの美味しさに感動しました。
他には、裏庭で採ったヨモギと玉ねぎと、頂き物のシイタケとかまぼこのかき揚げ。

お金はかかっていませんが、なんだかとても心が豊かになったある日の夕食でした。
最近新聞で読んだ俳人、黛まどかさんの言葉がずっと心に残っています。

「飯館(原発事故後、2011422日、村全域が計画的避難区域となった)は、
決して裕福ではないけど、豊かな村でした。それは、一つ一つのことを手間暇かけて
自らの手でこなしてきたからです。便利な暮らしに憧れ、経済効率を追求してきた
私たちには今、村の暮らしを通じて、本当の豊かさを学ぶことが求められていると思います。」
東日本大震災から3年を経て、日々価値観の変革の必要性を感じます。

我が家の辺りは、夜になると真っ暗で、でもその分満天の星空を見られる事に豊かさを日々感じています。
これからも、「本当の豊かさ」を探しながら生活したいと思います。


                                                   (下田市在住 佐生綾子さん)

          「感動の意見広告」

3月12日の伊豆新聞に載っていた、はぁとふる内科・泌尿器科の肥田大二郎医院長の意見広告
「若者よ!スマホが君の脳みそを食べ始めた!資格をとって世界に翔こう!!」にとても感動しました。
何日か前に高1の娘と「スマホが欲しい」「いらない!」で言い合いをしたばかりでしたから、
当然娘にも見せました。前回の「若者よ!スマホをやめて辞書を引こう!
資格をとって世界に翔こう!!」にも感動して切り抜きノートに貼ってあります。
2年くらい前に感動した旨を先生に手紙かハガキでお伝えしたところ、先生から
「先日は、若者よ
の意見広告に御意見いただきありがとう存じます。通学中の若者の後ろ姿をみて、
頑張れ、頑張れと声をあげているのですが、近いうち<遅れてくる青年に捧げるという本を出しますので、
よければ読んでみて下さい。」と書かれたハガキが届き感動しました。
その本はまだ入手できず読んでいなかったので、読みたいと改めて思いました。
最近のニュースで「読書時間ゼロ、大学生の4割超える」には本当に憂いを感じました。
それに反比例する様に、私の読書量は増え続けています。
やはり自分で考えて自分の意見を言える人間になりたいと思うからです。
この原稿を私はFAXで送っているので、それが夕方帰宅するとパソコンにアップされていて、
陰で労してくださっている方には、感謝しています。
でも、今の状態だと私の私物化状態である事が心苦しいので、
もっと多くの方のエピソードがアップされる事を願っています。


                                                   (下田市在住 佐生綾子さん)
佐生綾子 様

 法人会です。お気遣い頂きありがとうございます。
 ここは、感動をいつでも書き留めて頂ける場所ですので、私物化…などと思わないで下さい。
 皆さんが、ここの投稿に共感し、「よし、自分も…」と思って頂いたり、共感し、「私も…」
 と思って頂くところですので、どうぞ、お気持ちのままにされて下さい。
 佐生さんの勉強熱心な姿勢には、いつも感動しております。
 その感性こそが、感動ステーションの中に一番必要なものだと思っております。
 感動ステーションの取り組みは短期的なものではありませんので、少しずつ、佐生さんの様な
 方が増え、この場所がたくさんの人の感動溢れる場所になることを信じて運営しています。
 本来、法人会サイドが書き込む場所ではありませんが、お許しください。
 今後とも、宜しくお願いしますね。                 法人会事務局より



                「最悪」を救った「人間力」

2014311日、東日本大震災の朝、神妙な気持ちで迎えました。
早起きして新聞を読んでいて、震災の記事を真剣に読み、改めて「風化させてはならない」
との気持ちを強くしました。
震災以外の記事で、とても気になる記事を見つけました。
「保育定員40万人増 2015年4月から始まる子育て支援の新制度で、
消費税増税分から投入する7000億円の使途をめぐる政府の原案が明らかになった。
7000
億円のうち4000億円は保育の利用定員を約40万人分増やすなどの「量の拡充」に充てる。
残る約3000億円で幼稚園、保育所の職員給与を2.85%アップするが、「
質の改善」の多くの項目が見送られた。」です。
「質より量」保育現場がこんな事でいいのかと思わされました。
14
46分「黙祷」の時間を私は職場の保育園の12歳児のお昼寝している部屋で迎え、
「子供達が幸せになれる世の中になります様に」と祈りました。私は最近「三つ子の魂百まで」
を調べる中で「胎児期から3歳までが、人間の一生で脳がもっとも急速に発達する時です。
育児環境の質の良し悪しが、その発達していく脳の組織と機能に深い影響を及ぼすことが、
脳医学の発達に従って顕著になってきています」を読み、事の重大さを感じていました。
仕事を終え、帰路に着こうと車で帰ろうとした時、「あれ!?何か変…」少し走って車を降りると
前輪左タイヤがパンク。大きな釘が刺さっていました。
「最悪」「何で今日?」とか色々な暗い思いになりましたが、下田ホンダの担当の方に電話したところ、
すぐに駆けつけていただき、本当に助かりました。
若いのにとても一生懸命働いている姿には、いつも感心させられていました。
話しの中で、お子さんが私の勤める保育園の本園に4月から入園すると知りました。
お子様の健やかな成長を祈っています。
3月11日「最悪」の出来事を「人間力」で救ってくれた多良さん、本当にありがとうございました。


                                                   (下田市在住 佐生綾子さん)

         「風化させないように」

2014225日、下田市立稲生沢小学校1年生の読み聞かせの当番でした。
3月11日も近かったので、東日本大震災の事が書かれた「タンポポ」あの日を忘れないで
という絵本を持って行きました。
羽生選手の金メダルのニュースが載った新聞記事も持って行き、
「羽生選手は震災復興の為に自分が金メダルを取りたい。と言って、それを有言実行した」
という事を少しかみ砕いて話しをしました。
「3年前の3月11日に何があったか知っていますか?」と聞いても、なかなか手が挙がらず、
横から先生に「その時3歳だったので」と言われ、そうだ、わかるはずなかった。と思った時、
1人の男の子が手を挙げ「東日本大震災です」と答えてくれて驚きました。
「もし、津波が来たら、とにかく自分が助かるために逃げてください」とも話しました。
「でも、私が東日本大震災の後で思った事は、一日一日を一生懸命生きなければいけない、という事です。
明日があると思っていた多くの人達が、津波に流されてしまいましたから」と力説してしまいました。
仙台出身者として、東日本大震災を風化させない様に語り継がなければならないと思いました。
前回の1年生の読み聞かせの時は、「ぼくたちはなぜ、学校へ行くのか。
マララユスフザイさんの国連演説から考える」石井光太著を持って行って1年生には難しいかと思いましたが、
マララさんを知っている子が何人かいて嬉しく思いました。
私の問いかけ「なぜ皆は学校に来るの?」子供達「勉強するため」私「勉強したらどうなるの?」
子供「頭が良くなる」私「頭が良くなってどうするの?」子供「?」皆頭をかしげてしまいました。
私が「頭がよくなって、世界をよくする為に皆は勉強するんだと、この本に書いてあります」と言うと、
何人もの子が頷いてくれました。


                                                   (下田市在住 佐生綾子さん)


       「大雪で歩行困難、若者介助」の記事から

2月17日の伊豆新聞記事「大雪で歩行困難、若者介助」をとても素晴らしいと思い読ませていただきました。
88歳田中さん(伊東八幡野)「命の恩人」』「安立さん(八幡野)木村さん(東伊豆)下田高2年滝さん
(八幡野)交代で背負い家へ」記事を読み進めて行くうちに「あれ?!」と思いました。
安立さん、木村さんは、息子と下田高校時代の同級生で、結構仲良くしていただいた友人でした。
成人式を終えたばかりの2人が、この様な名誉な事で新聞に載っている事、本当に嬉しく思い、
アメリカ留学中の息子にもメールで知らせました。娘にも記事を見せると、
「滝さんは下田高校の生徒会副会長だよ」と教えてくれました。写真をよく見ると、やっぱりあの2人でした。
下田では、雪が全然積もらなかったので、この様な状態であった事は本当に驚きでした。
私はその大荒れの天気の日「今日は読む事、書く事に専念できるぞ」と内心ワクワクしていましたから…。
その時読んだ本が「求めない」加島祥造著でした。とても感動しました。いまあるものでじゅうぶんだ、/
と知るひとだけが、/生きることの豊かさを知るんだよ。その豊かさは命の喜びだ。
それを否定して、欲するなと言うんじゃないんだ/命の喜びを越えたら、/どこかで止めることさ。それだけさ。/
すると/静けさと平和/このふたつが見つかる/それが豊かさなんだよ。心が落ち着く気がしました。
そして、「あとがき」を読みとても共感させられると同時に悲しみも感じました。
「人間とは、何かを求めずにはいられない存在です。この前提は否定しないのですが、
同時に、人間は求めすぎることを抑える時、自分の中のものが出てくるーということも、生じるのです。
とくに現在の私たちの生活は自分の好むと好まざるとにかかわらず、求めすぎている。
いや、求めるように促されている!そこをポイントにして出てきた言葉なのです。
20年前と違って今度は、足ルヲ知ルコトハ富ナリという老子の思想がベースになっています。
「足ルヲ知ルコト」で、どんな富が見つかるのか、どんな豊かさが生じるのかーこの問いに、
私は無意識に答えていたといえるようです。
この思想はずいぶん古くからあった。老子や孔子、ブッタやキリストは、男性中心社会の欲望過多に深い警告を発したのです。
それ以来、この思想はたえず人々の間に伝えられてきたのですが、
同時に、社会の発展を目指すリーダーたちには無視され、省みられずにきたのです。
もしそうでなかったら、21世紀の世界はよほど平和で和やかなものとなっていたでしょう。」(一部抜粋)
そして思い出しました。平成23年に自由民主党の「国際政治・外交論文コンテスト」に応募した際、
原稿用紙の枠外に「政治家の方には『足るを知る』人になっていただきたい」と記した事を。
2月28日の全国紙「温暖化年148兆円損失、今世紀末までに穀物など打撃」を読み、
人間の愚かさを感じずにはいられませんでした。

                               (下田市在住 佐生綾子さん)


―知って欲しいことー「里見上等兵はなぜ自決したのか」

伊豆下田から四キロほど山の中に入ったところに、大沢という部落がある。
その部落のはずれの、自動車が一台やっと通れるような狭い路の傍に、真新しい墓碑がぽつんと建っている。
墓碑銘は、故陸軍上等兵里見俊治之墓。大正四年四月二十日生。昭和二十年三月十二日、ハルマヘラ島
ニテ死亡、と読める。
この墓は戦友たちが募金して、昨年八月末に建てたものである。
募金した六十三名の名前が、まるで里見上等兵の霊をとりかこもうとするかのように、墓碑の台座にぐるりと記されている。
のちに取材のため面会した約二十人の戦友は、口々にいった。「里見さんはわれわれの生命の恩人だ。
もしK中佐に手榴弾を投げつけてくれなかったら、われわれは生きて内地に帰れなかった」
「里見さんは上官殺害未遂の科をきせられて、遺族年金は支払われていない。なぜだ、なぜなのだ」
「われわれは、いまこそ、上官殺害未遂の汚名をそそぎたい。里見上等兵の霊を靖国神社にまつるのだ。
それは、生きて帰ってきた戦友たちの義務だ」「あれは犯罪では断じてない。立派な正当防衛だ」


ハルマヘラ島は、ニューギニアとセレベス島、ミンダナオ島の中間に浮かぶ、四国ほどの大きさのジャングルの島である。
南方諸島では大戦末期、日本軍と連合軍との間に激戦が行なわれたが、この島は、連合軍の飛び石作戦のおかげで、
空襲こそ激しかったものの、敵軍の上陸はなかった。
いわば、激戦地の中の“真空地帯”といってよい。
里見上等兵が所属する、ハルマヘラ派遣第十九野戦飛行場設置隊の部隊長と隊員たちの間で、いったい何が起ったのか。


一日二十一時間の作業

 この部隊は南方に飛行場を作るために、昭和十八年十二月、豊橋で編成された混成部隊である。
隊員は全国の部隊から転属して、また、赤紙で召集されて豊橋にやってきた。

隊長のK・Yは関東軍築城部から転属してきた現役工兵中佐(四十三歳・当時少佐十九年三月に進級)である。
なにせ大戦中期に編成された部隊であるだけに、幹部で現役は四十三歳のK中佐ひとり。
他の将校はほとんど幹部候補生あがりの、二十代の予備役である。

編成されてから四カ月ほど、浜松、伊那、宇都宮などの飛行場の設定作業に従事したが、中佐のシゴキぶりは、異常といってもよかった。
北野繁尾上等兵(当時二十三歳・現在工場主)はいう。

「私は通信兵だったのですが、いきなり円匙を持たされたので驚きました。
それはともかく、宇都宮での作業が一番苦しかったですね。冬の最中、飛行場に南方用のテントと毛布一枚で夜営ですわ。
しかも朝星夜星、朝五時起床で、朝食前に顔も洗わず二時間作業、夜は午前二時まで働きづめ。
メシは、飯盒のふたにすれすれ一杯しかくれない。現役工兵ならいざしらず、勝手が違うスコップを持っての重労働に、
兵隊はバタバタ倒れましたが、練兵休もくれないんです。休んでいるのがK中佐にみつかったらさあ大変だ。
雪の降る中で上半身裸にされて、汗がでるまで懸命に働け、とこうなんです。
お国のためだから睡眠不足に食糧不足でも、二、三日ならガマンします。でも、こんなひどい重労働が二ヵ月も続いたんだから、たまりません」

このままでは殺されてしまう、と兵隊たちは思った。それと同時に、あの隊長チトおかしいのではないかという噂も流れた。
ヒゲ面の隊長の仇名は、ゴリラ、熊、そして気違い。そして、隊の仇名は
?組。
 宇都宮では、こんなこともあった。
 国防婦人会が、設定隊の兵隊たちのために炊き出しをしようと、近くの中学校で握り飯とユデ卵を作っていた。
そこにK中佐がやって来て「誰が許可したか」と怒って、当時は貴重品だったこれらの差し入れ品を、みんな踏みつぶしてしまった。

兵隊たちの作業を見るにみかねた在郷軍人が、飛行場整備を手伝ってくれた。一休みしているとK中佐がみとがめて、
「隊長に作業止めを報告しないとは何事だ。貴様ら地方人め」と怒って、いつも持っている気合い棒で、地方人の引率者を殴り倒した。

工兵部隊は戦地に一番乗りして、基地を作りあげるという、危険で困難な作業を強いられる。
その日のために、寄せ集めの兵隊たちをシゴいているのだ、とも思えるが、そうだとは考えられません、
と竹村伍長(当時二十七歳・現在小売商)はいった。

「私は経理を担当していたのですが、あの人は、軍規軍規というクセに自分はルーズな人で、官給品をチョロまかすんです。
土曜の夜、実家に帰るときなど、手土産がほしいとみえて『今日、マンジュウの配給があるだろう。
運転手に届けとけ』と命令する。兵隊たちに配るためのマンジュウだから知らん顔をしていると、月曜日になってなぜ命令がきけない、
お前を本部から放り出してやるぞと殴られました。そして、チョロまかした酒を朝から飲んでる。
兵隊は裸なのに自分は冬外套を着てる、そんな人ですからね」

作業ラッパは鳴っても、休止ラッパの鳴らない毎日に、二名が脱走した。
二カ月間風呂にも入れてもらえないので、シラミがわき、手や足はシモヤケ、ヒビだらけ。
そのような日が続くうち、国防婦人会が司令部に、あまりにもひどすぎると文句をつけてくれた。
ところが、監察官が来る前日、K中佐は全員を風呂に入れた。そのため監察官は、大したことないじゃないか、と帰ってしまった。
あのとき監察官が、われわれ兵隊に事情聴取してくれさえしたら、あの事件は起こらなかったのに、と兵隊たちはいう。


船上での殺害計画

内地での猛烈なシゴキのために、約七百人の隊員のうち、四十人の傷病兵が出た。
そして、外地出陣の命が下ったのは、昭和十九年四月のことである。

中西宏巳軍曹(二十五歳・会社員)は、門司に集結して乗船を待っているとき、他部隊の将校が近寄ってきて敬礼して、こういいました。
『ご苦労様でした。どちらからお帰りになったんですか』とね。そういわれるのも無理はない。
われわれの軍服はボロボロでシラミだらけ。戦車もトラックも泥だらけでしたからね」

K中佐の副官は浮田吾夫中尉(三十七歳)という。現在ある大メーカー関連会社の社長をしている氏は、こういう。
「内地にいるときから、不祥事が起きなければいいがと心配はしていました。
外地に出発する前、市ヶ谷の航空本部に地図や乱数表を受領に行ったとき、
参謀中佐に、『K中佐は想像を越した苛酷な人で、酒乱の気味もある。外地で何か起きなければいいが』と話したんです。
すると参謀に、『何をいうか、お前は召集将校だから、そんなことをいうのだ。
お前たちは部隊長にではなく、天皇陛下に仕えているのだぞ』と怒鳴り飛ばされてしまった」

船の中でシラミをとっているのは、K部隊だけである。補充兵が四十名も乗船したのはK部隊だけである。兵隊たちは、こうささやきあった。
「外地につく前にK氏を殺してしまわなければ、俺たちが殺されてしまうぞ」

K部隊は最初ニューギニアに上陸する予定だったが、その当時すでにニューギニアは、ほとんど連合軍に制圧されかけていた。
船団は目標を変更して、マニラ経由、ハルマヘラに向った。
上陸したのは五月二十一日である。K部隊は、第二十四航空地区司令部の指揮下にはいり、ハテタバコ飛行場の整備作業をはじめた。
戦闘機しか発着できない滑走路を拡張して、中型爆撃機用の飛行場にするためである。

約二ヵ月間は無事に過ぎたが、七月になってから敵軍の空襲が始まった。飛行場は爆撃され、
それまでいた隼や呑竜など、わが国の誇る飛行機は破壊され、あるいは他の島に待避したため、一機もいなくなってしまった。
ニューギニアは落ち、ビアク島も、グアム島も玉砕した。
この島には敵軍の飛行場が作られ、B29が連日発着した。機械力にモノをいわせ、鉄板で滑走路をつくり、
一週間で飛行場は完成してしまったという。
ところが、K部隊では、飛行場作りは人力である。ブルトーザー、伐草車、排土車などの機械は配置されていたが、
どういうわけかK中佐は機械を使うことを許可しない。ダイナマイトさえ使わせないのである。

七月下旬から、部隊は飛行場から四キロ離れた山中に疎開をした。
日中は敵の空爆のために身をかくして、夜になるとタイマツを手に山を降り、爆撃で大きくあいた穴をうめる。
いつやってくるかもしれぬ隼や呑竜のためにいつなんどきでも飛行場を整備しておくのがK部隊のつとめだ、と中佐はいった。
しかし味方の飛行機は、一機も姿を現さなかった。食糧の補給もとだえた。

他の部隊は、自給自足するために、兵員の一部を畑作りに向けて、サツマイモ、タロイモなどを作った。
だが、K中佐は飛行場整備作業に全員を投入した。K部隊の食事は、飯盒のオカズのフタにすれすれ一杯になり、やがて半分になった。
それでも隊長は、自給自足を許さなかった。そして、自分だけは、腹いっぱいメシを食っていた。

本部付の千崎一衛中尉(二十五歳・会社社長)は、「ともかくささいなことで部下に乱暴をする人で、その風当りを少しでも和らげるために、
実際はやりたくなかったのだが、食糧を多くやった」

「兵隊に配る菓子や酒は、経理で保管しているのですが、それをみんなとってしまうんです。
『将校連中が横車をおして、横取りをすると兵隊が気の毒だ』とか、口では思いやりのあるようなことをいって、自分で取り上げてしまう」(浮田副官)

川向幸吉中尉(二十三歳・会社員)の証言。「彼が任務に忠実に修復作業をやったことはたしかです。しかし、あまりにも忠実すぎた。
作業は夜間に行わねばならず、夜間作業には夜食を出さねばならないが、夜食を出すと、昼間の食料が足りなくなってしまいます。
ですから『あんな状況で夜間作業は不可能です』と意見具申すると、何を、とこっぴどく殴られるんです」

第三中隊から本部付になった渋谷勘造中尉(二十三歳・会社社長)も、

「栄養失調の兵隊たちが、四キロの道を山から飛行場まで往復するだけで、大変なエネルギーの消耗ですよ。
常識では考えられぬ作業を押しつけているわけで、意見具申をすると『命令違反だ、切腹しろ』と殴り倒される。もうムチャクチャです。
将校団とK中佐の間には、深い溝ができてしまって、話しあいの余地がなくなってしまいましたね。
当時、飛行場を修復するのは生命がけですよ。そのくせ、隊長自身は空襲を恐れていて、一歩も山から降りない。
しかも、当番を二人も三人もつけて、自分専用の魚をとりにいかせたりするんですから、指揮官としてゼロです」


“乞食部隊”と異名をとる 


兵隊たちの疲弊ぶりはどうだっただろう。

赤紙で召集され、兵隊で一番の年長者だった北野忠雄上等兵(三十四歳・飲食店主)は語る。
「他部隊からは、乞食部隊、ルンペン部隊、骸骨部隊、とわれわれはバカにされていました。細々と畑を作り始めましたが、
イモなど大きくなるのが待ちきれずに、葉と茎を食べてしまう。
カエル、ネズミ、トカゲ、ヘビ、アリ、何でも食べましたね。練兵休もさせずに作業させるので、畑を作る体力はもうありません。
雑炊にしても、カンパンを一人に二つほど入れて煮たものです。
そりゃカンパンは大きくふくらみますが、ちっとも満腹感はない。
そこで、他部隊の畑に盗みに行く者もでてきた。
ある中隊など幹部以下で盗んでいるのがみつかって憲兵隊の調べをうけて、一週間の減食処分もうけました。
他部隊の兵隊に捕まった者は悲劇です。
リンチをうける。翌朝ひきとりに来いというので行ってみると、身体中から血を吹きだして倒れている。
そういう者も休ませずに作業をさせるんです。他部隊の畑に、こんな立て札がたちましたよ。
『コノ畑ニ許可ナク立ち入ッタ者ハ、イノシシ、ブタトミナシテ射殺スル』とね。他部隊の連中がやせているのなら、まだ我慢もできます。
しかし、やせているのは、われわれだけなんですから」

内地では自転車屋を開業していた北野忠雄氏には、力仕事の経験はない。
作業の仕方がなってないと、神経をとがらせた下士官にもいじめられて、何度も脱走しようと思ったそうだ。


北野繁雄氏もこういう。

「ネズミ、といってもネコくらいの大きさな奴をつかまえて、なまのままかじっている兵隊もいましたよ。
口から胸まで血でべっとり。まるで餓鬼です。下士官は下士官で、飯上げのときに立ちあって、公平に配られるように血眼でみている。
ある班長が、地面に落ちた飯粒をひろって食うと、もう一人の班長が、その分だけお前のメシから減らせという。
このくらいいいじゃないか。いやいかん。それで取っ組みあいのケンカですわ。
それでも隊長は知らん顔です。われわれを漁撈班と称して使役に使って、海に行かせる。首までつかって伊勢海老とりですよ。
あいつ、いつも酒をくらっていてね。そして将校にカラむんです。飲み終ると、ビンにシルシをつけて、当番兵に盗み酒をされないようにした」

食糧のない兵隊たちはシュロの新芽を食べた。アクが強くて身体には毒だが、なんとか満腹感を味わいたかった。
食べると、必ず下痢をした。赤痢にかかる恐れがあっても、スコールの水を飲んだ。水分がほとんどといっていい雑炊を配る食事当番に当ったとき、
空になった樽のフチにこびりついているわずかの飯粒を拾って食べるのが、最大の楽しみとなる。
文字通りの“乞食部隊”となった。「栄養失調って、どんなに恐ろしいものか、内地にいた方はご存じないでしょう」と竹村氏はいう。
「飯盒一杯の水も持てないんですよ。杖をつかないと歩けないし、ちょっとしたヌカルミでも、足をとられて転んでしまう。
そして転んだらもう起き上れない。それでもわれわれは働かされたんです。作業をサボッているのがバレると、気合い棒で死ぬほど殴られる」

体力を消耗しつくした兵隊たちは、マラリアやアメーバ赤痢につぎつぎとかかった。
それでもK中佐は練兵休を与えなかった。
まして、野戦病院送りなど、考えられぬことで、「手足がふくらむ、腹がふくらむ、髪の毛が抜ける、タレ流しが始まる、仏顔になる、それが最期です。
良いとこのボンボンから、先に死んでいきました」(中西伍長)

戦友に迷惑をかけるのは申しわけない、と、自決する兵隊もあらわれた。

英霊ラッパが一日に三回も四回も鳴る日が続いた。


死人を入院させる


K部隊の近くに、第一野戦病院があった。副医院長格の長田勘吉良軍医大尉は、K部隊の労務管理は適切でないと、
本部に意見具申をしていた一人である。
現在、東京で開業医を営む長田氏は「K部隊は圧倒的に重病人が多いんです。
野戦病院の連中、みんな憤慨していましたよ。重病人だといって、もう死んだ兵隊をかついでくるんですからね。
『死んでるよ』というと『いや体温は、まだ三十八度あります』マラリアでは四十度以上の熱がでるんです。
あわてて病院にかつぎこむ途中で息がなくなって、体温が下ってきたんですね。
しかも、かついできた兵隊も即日入院ですよ。ですから他部隊とは、レベルが違うんです。
その当時、入院患者は原隊から食糧を持ってくるのが決まりだったんですが、K部隊の糧抹は極端に悪い。それでますます憤慨しました」

他部隊のように、練兵休を与えてさえいれば、百人をこす戦病死者は出さなくて済んだろう。
実は、K部隊には軍医少尉が二人もいたが、隊長は、軍医の意見すら聞き入れなかったのである。

マラリアは突発的に発熱し、突発的に下る、熱がないときは健康とみなされやすい。
しかし、熱発作で赤血球が破壊されているので、体力は弱っているのである。

運よく病院にかつぎこまれたとしても、助かる保証はなかった。医療品は底をついていた。
キニーネはハンドン製のものが手に入ったが、アメーバ赤痢用のエメチンがない。長田軍医はつづける。

「ビタミンB1が足りないので、足がむくんで、夜盲症にかかるものが多かったですね。
その当時はビタミンも一ミリ単位のものしかない。ブクブクになった栄養失調患者に一ミリくらい注射してもどうにもならないので、
腰椎注射をして足腰がたたない患者を治そうとしたこともあります。
下痢止めもありません。仕方がないので、木の葉を焼いて、その炭をのませていたようなありさまです」


誰か隊長を殺してくれないか


K中佐はこうした事態になっても、飛行場修復作業を中止させなかった。
栄養失調患者の群れは、四キロの山道を、夜、あえぎながら下り、滑走路の穴をふさぎ、明け方、あえぎながら山道を上った。
味方の飛行機はいぜんとして姿を現わさなかった。
そのはずである。戦闘は、ハルマヘラを飛びこして、フィリピン諸島で行なわれていたのである。

将校たちは、兵隊たちの休養を意見具申しては殴られ、態度が悪いといっては殴られ、はては、何もしていないのに殴られた。
K部隊長の前に立てば、将校も初年兵もなかった。兵隊、将校を通じて、一番よく殴られた浮田副官は、

「わたし、三十歳をすぎた召集将校ですし、いきなり副官をやらされて面食らっていたので、ミスもします。すると棒きれで殴られる。
足げにされたこともありましたよ。軍隊だから厳格なのはいい。しかしあの隊長は厳格なんていうのではなく、乱暴そのものでした」

里見上等兵の直属上司である整備隊長・土井正三郎中尉(二十七歳・町役場勤務)も、

「私は先任将校でしたが、意見具申してもきいてはくれない。かえって細かいことまで指示をされて中隊長のやることなんかないんです。
部隊長と兵の中間に本来は立つべきなんですが、そんなこと望むべくもなかった」

「意見具申して生意気だと言われて、斬り殺してやるから盛装して来いと命令された将校もいますよ。
二十歳くらい歳の違うわれわれ将校は子供あつかいでした。
現役の俺以外はみんなボンクラだと思っていたんじゃないでしょうか。
そのくせ用心深い所もあって、将校が結束して隊長にあたらないように、中隊ごとに孤立させるようにしむけていた。
本科のグループと経理のグループとケンカをさせたり、各グループをバラバラにしておく人です」(川向中尉)

「兵隊はみんなヒョロヒョロでした。わたしは内地にいたとき八十二キロだったが、終戦の時は五十キロにやせてましたからね。
それなのに隊長は、牛カンたべたり水
アメなめたり、酒をのんだりして、ピンピンしているんです。そんな隊長のために死ねますか。
ふつうは隊長のために生命を投げだす、これが軍隊でしょう。それがK部隊では違うんです」(中西伍長)

部隊長を殺そう。殺さなければわれわれが殺される。ハルマヘラに向う船の上でささやきあった計画を、
現実のものにしなければと兵隊たちは考えはじめた。以下は、コトの性質上、発言者の氏名を伏せる。

「私たちの中隊のMという兵隊は、兵器庫から手榴弾を盗みだして、殺害計画をねっていました。
そのほかにも計画をねっているグループはあったでしょうそれを知っているのか、Kは夜は一人歩きをしないんです。
やむなく外出するときは、オーイ副官、と呼びつけておいて、先を歩かせる。私ですか?そりゃ殺したいと思いましたよ。
でもKを殺すことは自分も死ぬことでしょう、あんな下らない奴と生命を交換するのは真っ平です」

「私も殺せなかった。しかし、もし敵が上陸してきたら、真っ先にKを殺したでしょう。弾丸は前から飛んでくるとは限らない。
そうなれば恐らく全員がKに銃口を向けたのではないか」

「わたし、隊員の苦しさを他部隊に訴えにいったことがあるんです。食糧を下さいと。
それがバレてK中佐に殴られ、つきとばされた。もう少し殴られていたら、持っていたピストルを抜いたでしょう」

殺したいと思っていたのは、一部の将校と同じである。

「私にもK中佐を殺したいという気持はありました。しかし、上官の命令は朕の命令と心得よ、という教育をうけていたので、
殺すこともできずにとても悩みました。
とにかくあの部隊から一刻も早く脱けだしたかった。みんな、誰かKを殺してくれないか、と思っていたんじゃないでしょうか」

「あいつを殺そうという空気は、内地からあったわけですが、ハルマヘラでそれが爆発した。
私も何度も殺そうと思いました。しかし自分を犠牲にする勇気はなかった。内地にいる両親のことを思うと、足がすくんだ」

戦後二十六年もたっているのだ。ハルマヘラでのKへの憎悪の感情は、歳月の波に洗われ、若干の増幅はあるだろう。
これらの人たちが、当時、本当に殺そうと思ったのかどうか、それは確めるすべはない。
しかし、「今日は誰か殺してくれないかな、と思って眼覚め、明日こそ誰かが殺してくれる、と思って眠る毎日」が続いていたことはたしかである。


地獄からの解放


里見上等兵が、K中佐に手榴弾を投げつけたのは、昭和二十年三月十二日午前十時のことである。
現場近くの本部で事務をとっていた浮田副官が語る。

「隊長は兵隊たちを使って、自分専用の畑をみていたようです。里見君も使役で畑の手入れをしていたように思います。
(なぜ使役に出ていたかは、あとで述べる)ドカーン、ドカーンと爆発音がしたので、
わたしは、いつものように、モロタイ島から魚雷艇がやってきて機関砲をうちこんだのかな、と一瞬思ったんですが、
続いて『ウワーッ』という、わめき声と、『副官』という叫び声がきこえたので、とんでいきました。
隊長は畑の真ん中にしゃがみこんで、『ウ―、ウ―』うなっていました。状況は、そのときはよく判らなかった。
すぐに軍医が来て手当をしましたが、そのとき『兵隊が手榴弾をぶつけよった』と隊長はいった。
里見君だとは気がつかなかったようですね。私はすぐに、野戦病院と地区司令部に連絡をしました。
三十分くらいして整備隊の宿舎の方向から手榴弾の爆発音、そして、ピストルの発射音がきこえました。
かけつけてみると、里見君が、自殺していました。腹の所で手榴弾を爆発させ、ついでピストルで頭を射ぬいていました」

K中佐が殺されるのを毎日待ちつづけていた兵隊たちは、しらせをきいて、

「ドカーンと音がしたので、艦砲射撃かと思ったんですが、兵隊が鉄砲を持って、あっちウロウロ、こっちウロウロしているので、
おかしいな、敵の上陸かと思ったんです。きくとKがやられたというじゃありませんか。
正直いって、うれしかったですね。ある将校なんか、手を叩いて喜んだっていいます。
そりゃそうです。われわれドレイみたいな待遇でしたからね。
便所にしたって、ドレイなみです。大きな穴を掘って、板を何列か渡す。一列に三人の兵隊がしゃがむんです。
みなしゃがみながら、前の兵隊の肩に手をあてて、おい、もう少し前へ行けなどといいあう。
これは地獄ですよ。そして、われわれは、その地獄から解放されるんですから」


将校たちの感想。


「表向きには、あの行為は良くない、と申しあげるほかない。
しかし、あの事件以後、隊の空気が変わった。死傷者も減ったし、第一に精神的に生き返って、勤労意欲もわいた。
だから、里見君の行動は、部隊のためになったということができる」

生命の恩人か、といわれればそうだと答えるほかはありませんね。われわれの身代りになって生命をすててくれた。
隊長が代ればなんとかなるとみんな思っていたから」

「将校として、これは大変なことになったと思ったことは確かだが、本心は喜んでいた」
里見上等兵は、関西出身の人間が比較的多いこの部隊の中で、珍しく伊豆下田の出身。
マレー、シンガポール作戦に参加して復員、ふたたび応召した五年兵である。キップのいい陽気な兵隊と、評判も悪くない。
故郷で農業を営む両親と妻、そして二人の子供を残している里見上等兵が上官殺害を企てるのには、よほどの動機がなければならない。
戦友のために自らを犠牲にするのであっても、何らかの感情の動きがなければならぬ。

ある古参兵が、その秘密を話してくれた。「事件の起きる二日前のお昼、里見君は部下を六人つれて、飯上げに行ったんです。
Kは専用の浴室で
フロに入り、フンドシ一丁で専用の畑にしゃがみこんでいた。里見君はKに気づかずに通りすぎた。
すると『待て、なぜ欠礼した。軍規違反だ。副官を呼べ』と、さんざん殴られた。
Kが軍服をきていて欠礼したのなら、まあ殴られても仕方がない。しかし、Kは裸ですよ。
里見君は殴られ、殴られて重営倉三日ということになったが、あいにく、重営倉はない。そこで、罰として、隊長の使役をいいつかったんです」


拒否した輸血命令


病院にかつぎこまれたK中佐はどうなっただろうか。

「われわれ軍医仲間でK中佐の評判は悪かったですからね。
人の命を助ける医者がこんなこというのはおかしいが、Kを助けたら兵隊たちが気の毒だ、生きて帰すなというものもいました。
しかし、戦傷は内科疾患と違って治療が簡単なんですよ。
患者の体力が強くて化膿しなければ、だんだん治っていく。あとは包帯交換だけです。
最初の二週間は危ないというので、それみたかと、病院の連中はいっていましたけれど、あの人、栄養がいきわたっていましたから、
肉の乗りがよかった。なにしろ病院にきても当番兵がついて、われわれがお目にかかったことのない食糧をたべてましたからね、
それでますます憤慨したんです」(長田軍医)

「事故のあと、臨時の隊長として三宅少佐という方がこられました。私が病院に見舞いにいくと、
『俺はまだ部隊長だぞ。少佐をよこすなど、礼を失するとは何事だ』と大変な勢いなんです。わたしは、
心の中では『ずっと病院に入って、そのまま死んでくれればいいのに』と思っていましたし、
兵隊も、Kが部隊長として戻ってくるのを恐れていたに違いありません。
中隊長クラスも心配をして、『隊長が復帰しないように司令部に頼んでくれ』というんです。わたし、正直に司令官に話しました。
『わかった。しかしあのケガではどうせ戻れないだろう』ということでした」(浮田副官)

事件後、将校が隊長の私物整理をしたところ、大量の酒、煙草、甘味類が発見された。その事実を知った兵隊たちは、あらためて激昂した。

兵隊たちは、ひたすら彼の死をねがった。

「事件のあったあと、『Kに輸血をするので、血液型適合者は集まれ』という命令がありました。
しかし、誰もいきませんよ。さんざんわれわれの生き血を絞っていたんです。そんな人間に、なんで血をやらねばいかんのですか」

K中佐は隊員の希望通り、原隊に復帰しなかった。
三十二師団に転属となったのである。K中佐は、少佐も十三年間もつとめた、陸士出としては、いたって出世のおそい将校だった。
そのために兵隊を酷使しても点数をかせごう、司令部の命令は絶対に守り抜こうと思っていたようである。
己の出世のために部下を犠牲にしたK中佐は、結局、部下に仕返しをされたわけである。もう充分に罰せられている
K中佐のその後については、あえてふれない。

K部隊の生存者約五百人が帰国したのは、昭和二十一年五月三十一日のことである。
帰国の途につく船の中で、「決して里見君のことは忘れまい」と誓いあったが、戦後の混乱期では、自分と家族が食べるだけで精一杯である。
そして、若干のゆとりがでてきたとき、みなはふたたび、里見上等兵のことを想った。そして、何か感謝の気持ちを表したいと、墓碑を贈った。
墓碑の募金にはしりまわった中西広巳氏(生還者の会・春島会会長)らはいう。

「五百人も里見君のおかげで生還して、その当時は、遺族の面倒は俺がみるといいあったのに、人間って冷たいもんですなあ。
募金の手紙を出したのに、六十三人しか送金してこない。ナシのツブテの隊員もおりますからね」


厚生省の態度


里見上等兵の遺族の生活ぶりは悲惨の一語に尽きる。
終戦直前に自殺の公報がまいこみ、憲兵が調査にきた。長男は九歳、長女が七歳のときだ。
非国民とののしられ、村八分にされた。ある事情から里見上等兵の妻は家をすて、老母が二人の子供の面倒を見ていた。
しかし、老母は中風にかかり、生活苦から農薬を呑んで自殺。あとには、幼い子供と、精神病患者の叔母が残された。

この子どもたちの面倒を、国はぜんぜんみなかったのである。
その義務はないと、厚生省はいう。
上官反逆罪を犯した者には、遺族年金も弔慰金も与えられないのである。
昭和三十七年、父の死を公務上と認めろという請求書を、遺族は厚生省に提出した。厚生省は、五年間も慎重に検討した結果、
四十二年に、請求書を却下した。だが遺族はあきらめなかった。
「戦友が墓をたてて生命の恩人といってくれているんだ。どうしてそれが犯罪なのだ。せめて情状酌量をしてほしい」

四十五年九月、遺族と戦友の、「里見上等兵を靖国神社にまつってほしい」という陳情書が、厚生大臣に送られた。
まだ返事はない。軍医たちも署名運動をはじめた。

窓口である、厚生省援護局援護課を訪れた。S援護課長はよく笑う男だった。


 ―遺族も戦友も、厚生省からの返事を待ちかねてます。もう半年ちかくたっているし。

「待っているといわれても、ハハハ、陳情書というのは、本来、返事をくれというものではない。
陳情されて、それをお聞きしましょう、というものです。そして法律上可能なものであれば処分もします。
照会状であれば、もちろん返事はさしあげますがね」


―そうですか。


「それにあの事件は、もう四十二年にカタがついている。
昨年の援護法一部改正で、逃亡による処刑や自殺などの遺族には、国民感情を考慮して、年金や弔慰金をさしあげることになっていますが、
殺人や強姦などのハレンチ罪を犯したものには適用されません」


 ―遺族も戦友も、問題はカネじゃないといっています。遺族は成人に達しているので年金はもらえない。
弔慰金といってもたった五万円でしょう。あの人たちは、靖国神社にまつってくれといっているんです。


「ハハハ。それは困りましたね。お気の毒だとは思うが、わたしどもは陸軍省でもなければ神主でもない。
まあ、弔慰金を出すか出さぬかは、学識経験者で構成されている援護審査会の議決で決められるわけで、
そのためには、あらためて、請求書を出さなければいけない。そのための指導をするように静岡県の方にはいっておきましたがね。
(注・まだ、遺族には何の連絡もない)それにね、この戦争では二百万人もの戦死者があるんですよ」


    ×      ×

    四十三年の末に、里見家に、こんな書状が届いた。

    日本国天皇は故里見俊治を
勲八等に叙し白色桐葉章を贈る
    昭和四十三年十一月三十日 をおさせる

    昭和四十三年十一月三十一日

                               内閣総理大臣 佐藤栄作


聞けば、この叙勲は日中戦争のものだという。片方で罪人だといい、片方で叙勲する。お役所仕事は、ここに極まった。》


読み終わり当然ながら、二度と戦争を起こしてはいけないと思った。
下田から大沢に行く途中に蓮台寺がある。
今年はコロナ禍で「蓮台寺のしだれ桃の里まつり」が中止と、伊豆新聞のデジタル版で知り残念に思った。

《蓮台寺荘は閑静な下田蓮台寺温泉宿。小説家の山本周五郎ゆかりの宿であり、大人の隠れ家的な雰囲気が漂う。
時を重ねた木造建築だからこそ放つオーラというものであろうか、日本人の心の琴線を揺さぶるノスタルジーにあふれ、
昭和初期の名工たちが粋を凝らした匠の技を現代に伝える。
残念ながら、平成二十八年三月末で閉館。昭和の香りを残す名旅館がまたひとつ消えてしまった…》(温泉新選組HP)


幸い壊される前に、2度くらい日帰り温泉で、建物の中に入ったことがあったから、それがいい思い出にはなっている。
無くなってしまったことは本当に悲しい。でもそこで見つけたのが、『里見上等兵はなぜ自決したのか』細谷雅身(ルポライター)
『文芸春秋』昭和464月号のコピーだった。
題名の横に書かれた「あの上等兵が隊長に手榴弾を投げつけてくれなかったら、われわれは生きて帰れなかった」を読んだだけでも、
戦争の悲惨さが想像できるようだった。
近所のご婦人が持っていたので借りてコピーした。その時この話を埋もれさせてはならないと思ったのに、何年過ぎてしまったことだろう。

私がその墓碑のすぐ近くに住みながら、墓碑に隠された真実を知ったのは、住み始めてから何年も経ってからだ。
今はもう、墓碑に名前を刻んだ戦友も、皆亡くなっているのだろうと想像する。
里山にたたずむその墓碑を参る人はあまりいないようだ。戦争の悲劇の中の氷山の一角かもしれないが…とても考えさせられた。

今年に入って半藤一利氏の訃報がとても悲しかった。『文藝春秋』の編集長を長年務めた方。
残念ながら、『里見上等兵はなぜ自決したのか』が掲載された時は違った。私は訃報を知りすぐに『昭和史』19261945 半藤一利(平凡社)
を取り寄せると、それがサイン本でとても嬉しかった。じっくりと時間をかけて戦前を学びたいと思う。

インターネットで見つけた、半藤さんと40年以上の親交があるノンフィクション作家の保阪正康氏の言葉がとても印象に残った。
「半藤さんは、『あの戦争の中から何を教訓としたかを語り伝えていくことが、この国の良心を守ることだ』と話していた。
半藤さんの精神や哲学、歴史と向き合う姿勢を守り、実証主義で歴史を見るという道を日本の中に定着させたい。
半藤さんの歩んで来た道を絶やさないでつないでいくのが、半藤さんへの約束事だと思う」

本屋で永久保存版『半藤一利の昭和史』を衝動買いした。手書きの原稿が印象的だった。

私は蓮台寺から上大沢へ向かう帰路(なかなか帰れていない現状だが)の途中の里山の風景が好きだ。
経済至上主義の都会にいても、頭の中は里山資本主義で、なるべくごみを出さないように…とか、
過剰な便利さを享受することが環境破壊に繋がる…とか、そんな思考回路が常に働いている。
コロナ禍で余計にその回路が活発に動き出している。
「食料さえ確保できればどうにか生きていけるよね!」そんな覚悟も芽生えているが、我が国の食料自給率の低さがとても心配だ。

戦争は人間のエゴイズムが起こすものではないだろうか…。
そしてコロナ禍が自然界からの逆襲と捉えている者としては、人間のエゴイズムに因る地球環境の破壊が原因なのだと思う。
さて、これからどう生きていくべきか…真剣に考えたい。



                               (下田市在住 佐生綾子さん)