私が考える「わが町のナンバーワン、オンリーワン」



           「つるつるスベスベ美肌の湯」

毎日温泉に入りたくて、横浜から移住して20年が過ぎた。
その思いが叶い、温泉の大浴場が併設されているマンションで、身も心もどっぷりとその恩恵を享受している。
言うまでもなく伊豆は温泉の宝庫。泉質、効能、温度等、それぞれに特色があり、日帰り入浴施設へも足繁く通っている。
その中でも、特に私のお気に入りは、下田の奥座敷と言われる横川にある「観音温泉」で、源泉水は、泉度51度、
PH9.5のアルカリ単純泉、入浴後は肌がつるつるになる。女性にとっては本当に嬉しい「美肌の湯」だ。
他府県から遊びに来る親戚、友人達にも自慢して、必ず連れて行く。喜ぶ顔を見て私も大満足。
歳の割には肌が綺麗と言われるが、温泉のお陰かも。私も美魔女になれるかなぁ~。
「図々しいにもほどがある」何処からかそんな声が聞こえてきそうな…。
私が押す「ナンバーワン」は「観音温泉」だ。

                                         下田市在住 N・Yさん

        「河津町の町民主権者意識こそ誇り」

河津町には全国区のブランドである河津桜、天城山麓のワサビ田風景とそのワサビ、峰温泉大噴湯、
それに林際寺の観世音菩薩立像などナンバーワン!オンリーワン!がたくさんあります。

でも私は考えます。最高にナンバーワン!オンリーワン!なのは、河津町の町民の主権者意識です。
これこそ「わが町のナンバーワン!オンリーワン!」です。

2017年の複合施設建設を端緒とする町長リコール(更迭)運動とその決着は鮮やかでした。
ことの次第と顛末は2017年に伊豆新聞をはじめ、各メディアで報道されましたので割愛します。
そして私の感動は複合施設に賛成する人、反対する人どちら側かに組したものではありません。
ひねもす退屈で色彩に乏しい町に住むかにみえた河津の町民が、じつは日本の
130年以上に
培ってきた民主主義の歴史的な体現者であることに誇りを感じたのです。

ひとつの政治案件に賛成者と反対者がいるのは当然です。
今回はその両者の闊達な議論と行動が憲法と法律および諸法規にのっとり極みまで
展開されていったことがすばらしいのです。

とくに公共施設建設、いわゆる箱モノ建設の是非について、
町長リコールまでいきついたのは日本の憲政史上の初のできごとではないでしょうか。

河津町は静岡県で3番目に小さな町だそうです。その小さな小さな町の町民が町の主権者は
あくまで町民であることを示した今回のできごとは、河津町制60年の成果でありその成熟でもあるといえるでしょう。


                                         河津町在住 S・Hさん

     「自分のまちに誇りを持てる、自慢できる健康な心」

私は下田市内で飲食店を経営しています。
下田にはいいものがいっぱいあると思うけれど、ナンバーワンとなると、何をあげていいものか…。
しばらく考えて、いまのわたしにとってのナンバーワン、オンリーワンは、
「ゆたかな山海の恵み」にあると思った。
全国を見渡せば、海と山にかこまれて、恵まれた水源や土壌、海流の影響などでとびきりおいしい野菜や魚、
畜産物がとれる地域はほかにもたくさんある。どの地域も素晴らしいと思う。
でも、得てして地元のひとは、それが素晴らしいものだということに気づけずにいることが多い。
「いつもある」ものだから、「当たり前」になってしまうのかもしれない。

「わがまちのナンバーワン、オンリーワン」には正解などない。
それぞれの「私にとっての一番」でいいのだ。
地方に行くと、「うちのまちにはなんにもない」と謙遜半分かもしれないけれど、
いうひとも少なくないなか、下田の人はわりと、「おらがまち自慢」をできている気がする。

自分のまちに誇りを持てること。ここが一番!と自慢できる健康な心。
それも私は、下田のいいところだと思っている。

                                                        下田市内飲食店経営 Y・Mさん


          「無いものねだり」

みなさんは今宵(今夜)の月の形をご存じだろうか?
月がいつごろ、どこから出てくるのかを、考えたことがあるだろうか?
実は「日の出」と同じように「月の出」があるのだ。それも毎日形を変えて訪れる。
日本には「月を愛(め)でる」という美しい言葉がある。古来より月に対する遊び心や夢、
憧れを抱いていた証だろう。それはそれはとても情緒的で、雅(みやび)な時の過ごし方だったのではないだろうか?

昔の人が月に寄せた「思い」、月が自然と調和する「美しさ」、
月見を四季の営みの一つとして楽しんできた日本人の「感性」を改めて誇りに感じる。

東伊豆町では昨年の春、特に後世に残したい名月として、
全国名月サミットで「伊豆北川温泉ムーンロード」が「日本百名月」の第15号登録地に認証された。

そして、冬にはこの大切な資源「ムーンロード」が、
町の手がける地ブランドとして初めて商標登録されたのだ。大変名誉なことだ。

そのきっかけは十数年前、南米の民族楽器ケーナやサンポーニャの世界的名手・瀬木貴将さんとの出会いにさかのぼる。
小さな港町である北川の美しい景色や時の流れ、そこで生活する人々の営みに影響を受けて、
彼はアルバムを制作した。そのタイトルが「MOON」だった。

地元の長老からよく言われた事がある「無いものねだりをしていてはだめなんだ。あるもの探しをしないとね」。
それを昨日の事のように思い出しながら、昨年の中秋の名月に行われた瀬木さんのライブ「謝月祭」を楽しませてもらった。
北川では「ムーンロードに10秒間お祈りすると願いがかなう」という伝承がある。
無いものねだりでなく、あるもの探しをしていたから、“後世に残る名月”というすてきなご褒美に巡り合えたのかもしれない。
月は人を魅了し、出会いを与え、時には願いもかなえてくれる。
伊豆のこの地で、今宵の月を拝めることに感謝したい。

                                      北川温泉宿泊業 K・Jさん


          「坂本龍馬の生涯の夢が語られたのは下田!」

幕末の英雄として、誰もが知っている「坂本龍馬」。
下田には、文久3年1月、偶然の嵐によって行われた、土佐前藩主
(当時は若くして隠居していたが幕末四賢候にも数えられた土佐の最大権力者)山内容堂と、
当時脱藩者の龍馬を弟子としてかくまっていた、幕府軍艦奉行並、勝海舟との謁見が行われ、
龍馬の脱藩が許された事は、下田の宝福寺に謁見の間が残っていることで検証されている。

脱藩者として、正に指名手配犯であった龍馬が、この謁見により、突然歴史の表舞台に躍り出た。
ここまでは、宝福寺という史跡があることから現在では大分知られるようになり、
全国の龍馬ファンも訪れるようになった。
しかし、その1年半後、元治元年6月、同じ下田で龍馬が生涯の夢を語ったことは意外と知られていない。

この時、龍馬の師匠である勝海舟は、乗船していた長崎丸という船の機関が故障していた為、
下田に逗留し、龍馬に助けを呼んでいる。

龍馬は、長崎丸の代船、翔鶴丸と長崎丸の引き船、黒龍丸という2隻を率いて海舟を助けに下田に来ている。
その時の様子は「海舟日記」に記されているが、石炭の積み替えのため、2人は下田に上陸し、
龍馬は、海舟に「蝦夷地開拓の夢」を意気揚々と語っているのである。

その時の龍馬の様子を海舟は「志気甚だ盛んなり」と龍馬の鼻息ぶりを表現している。
龍馬の死後、坂本家の子孫は、龍馬の夢を継ぐべく北海道に移住している事からも、
この夢が、龍馬の生涯の夢であった事は間違いない。龍馬は「攘夷!攘夷!」とやたらに命を落とす若者を、
刀を鍬に持ち返させ、開拓へと誘いたかったのである

脱藩浪人で指名手配犯だった龍馬が、たった1年半後、師匠に壮大な夢を語れるまで大きな男になっていた
事は驚きで、その地が偶然にも、龍馬が飛翔するきっかけとなった下田であった事は偶然の一言で片づけられない。

龍馬が飛翔するきっかけになった地であると同時に、生涯の夢を語った地であるという事実は、
開国の町に相応しい歴史的事実であるので、正にオンリーワンとして活用して頂きたい。


                                                下田市在住 伊豆龍馬会会長 T・Kさん

「わが町のオンリーワン、ナンバーワン」企画として私がしたいこと

「地物のファッションショー」

商店街の活性化、消費拡大などと聞くと一般の消費者がピンとこないので年代別のファッションショーを
企画・開催したいです。地元商店に登録してもらい金額設定し、範囲内でコーディネートし商店の宣伝、
ショーに参加した方には商品がモデル料として組み合わせた商品が安価で購入できるシステム。

他のイベント開催時でも季節の変わり目など自由、商店街で買い物する楽しさを感じてほしいので、
老若男女問わず参加できるものにと思いました。


「テーマ別の飲食の会」
例)今月のテーマは人口減少問題です。飲食2,000円会費 2時間のフリートーク、グループで一人
  が話すのは3分、後はほかの人の話を聞いてください。テーブルのメンバーは抽選。45名のグループトーク。

   このような内容で、月替わりで飲食店に協力いただき、小規模・中規模のトークをしてもらう。
  運営側で録音やメモ係、タイムキーパーを設け、内容をまとめる。まとめたものを年に一度発表する。
  昼・夜など年代、職業に合わせ対応できる。


「コミュニケーション力をつける企画」
わが町のPRを中学生、高校生、大人ができるかというとなかなか難しい、
県外に出る学生が地元を語れるように、プレゼンのように地元の良いところをみんなが語れるよう
小冊子「1分でまとめる、地元の良いところ100選」などまとめたい。地域学習に活用してほしい。


                                     下田市在住 Y・Yさん



          「はさみ石を世界遺産に」

私の考えるわが町のナンバーワン・オンリーワン。
それはわが町が誇る奇石「はさみ石」とそれにかかわる仲間たちです。
東伊豆町の白田と稲取の字堺に公図にも載っている胴回り11m高さ20m程の巨石が
白田側と稲取側に1m程の距離をおいて並立し、その間の上部に50センチ四方長さ1m程の岩が挟まっています。

その姿は夫婦がわが子をやさしく抱く姿に例える方もいます。
また、はさみ石のあるトモロ岬付近は良い漁場で稲取と白田の漁師の争いが絶えず
それを治めるために天城の天狗がここにはさみ石を据えたという民話も残っています。

昭和7年に旧東伊豆自動車道路が開通し昭和42年現在の国道ができるまでは路線バスからも
容易にはさみ石を見下ろすことができた様ですが、昭和36年に伊豆急が開通すると
観光客はバスには殆ど乗らなくなり、本格的に伊豆が観光地になり始めた時には
はさみ石を目にする人はほとんどなくなり、人々に忘れかけられた存在になっていました。

さらに昭和53年の大島近海地震で被災した旧東伊豆自動車道路が復旧の手が入ることがなく廃道となり、
はさみ石には容易には近づけなくなりました。

しかし、このはさみ石に魅せられた人は何時の時代にも存在し、昭和19年に出征軍人の無事生還を祈り
1次注連縄が張られ、今は残っていませんが、はさみ石神社も作られた記録があります。
その後、数人の有志の手で平成7年に第2注連縄が張られ、さらに年代が変わり若い人たちで
旧稲取灯台からの歩道が整備され、旧道に展望台も設置されました。

しかしその険しい道故。残念ながら訪れる人はほとんどいなかったようです。
私がはさみ石に関わったきっかけは商工会のはさみ石視察でした。初めて間近にはさみ石を見上げた時、
その神秘性、大きさに圧倒され、これは世界遺産級の宝物だと確信した瞬間でした。
町長の理解もいただき、それから暇さえあればはさみ石に通い、道を広げたり、
それまでは崖をロープで降りなければならない箇所にはしごを掛けたり、
足場が悪い箇所に階段を設置したりコツコツではありますが整備を進め、
今では、女性でもはさみ石を間近に見ることができるようになりました。

昨年、遊歩道を整備してくれた先駆者たちと町の有志の方々と協力し、
2次注連縄の片方のロープが切れ垂れ下がっているのを元に戻そうと準備していたのですが、
その矢先に大きな波で流され消失してしまいました。

そこで応急に竹と藁を芯に荒縄で巻いて作った長さ4mの注連縄が皆の力で完成し、第三次注連縄が実現しました。
今年1月にも波に洗われ傷んできたので新しい6mもの注連縄を作り架け替えることができました。
これからもまだまだやりたいことがいっぱいあります。即席ではなくしっかりした注連縄を掛けること。
最近発見したはさみ石神社の鳥居の基礎の場所に鳥居を復元すること。
展望台までのアプローチの整備など夢は限りなく広がります!
ほかのメンバーは笑いますが、私はまだ世界遺産に夢をつないでこれからも活動していこうと考えています。

先人たちに続き少しでも東伊豆町、伊豆半島の観光資源の開発のためとはさみ石に情熱を傾ける人間が
途切れないでいることが、わが町のナンバーワンと考えます。
また、はさみ石の神秘的な姿は東伊豆町のオンリーワンであり、
世界のオンリーワンであります。(参考文献:萩原朝子氏 はさみ石)


                            東伊豆町在住 M・Tさん


         「花畑は自慢の種」

私の住んでいる松崎町のナンバーワンであり、オンリーワンは、花畑です。
12年前、松崎に移り住んだ時に、一番印象深かったのが、花畑でした。
那賀川沿いの桜並木と道を挟んで花畑が広がります。
花とロマンの里、松崎とはこのことかと感動し、松崎に住んでいることを誇らしく思いました。

松崎と言えば花畑と、他所の方々への自慢の種として今も尚、語らせていただいています。
18年続いた花畑も、様々な経緯を経て、2019年度は有志による開催となりました。
持続可能なイベントとして生まれ変わることとなります。
今年の春も綺麗な花を咲かせ、来年、再来年、子の代、孫の代までも、
故郷の誇るべき宝として花の種をつなげて行けたらと願っています。


                           松崎町在住(住職) T.Dさん


     下田でしかできない「豊かな暮らし」

わたくし事でありますが、年春に生まれ育った東京から下田に家族3人で移住してきました。
こちらでは養蜂場と工務店の仕事をしながら、米をつくったり文章を書いたりしながら暮らしています。
ありがたいことに下田でも多くの人と知り合いました。

そんな人々と話していて感心することがあります。
それは、多くの人がそれぞれの立場で「下田」が抱える問題に対して行動しているということです。
下田に来てくれる観光客をもっと楽しませたい。下田をもっと盛り上げたい。

下田の魅力をもっと発信したい現実に目を向けると、この行動も「人口減少」と「観光客の減少」
という下田が抱える大きな問題があってのこと。

「あの頃はもっと人も観光客も多かった」という声もよく聞きます。でも、残念ながら、
あの頃(高度経済成長期~バブル期)とは大きく違い日本全体が少子高齢化に向かっている今、
人口増加!観光客増加!となるのは現実的でないのかもしれません。

「あの頃より人も観光客も少ないけど、あの頃より豊かなまち。」そこを目指していくのが賢明なのだと、
そんなことも何人かの方から伺いました。

実際、下田の「あの頃」より、今現在、多くの「人」と「観光客」がいる東京から移住してきた自分は、
ここ下田でしかできない、そして東京ではとてもできないような「豊かな暮らし」をさせてもらっています。

ピンとこない地元の人、いらっしゃるかもしれません。
地元の人には当たり前すぎることが僕ら移住者にとっては驚くほど豊かなことだったりするのです。
例えば、暮らしの中にある美しい海。

特にマリンスポーツや釣りをするわけではないのですが、海沿いの道を走るだけ、
海辺を散歩するだけでわくわくしてしまいます。海だけじゃなく、山も魅力的です。

木々に囲まれながらも時折見える海がたまりません。
また、美しい海がはぐくむ魚介・海藻がおいしいのは言うまでもありませんが、
地元の方が生産する果物や野菜、米もとてもおいしいのです。

そして、それぞれが「なんでこんなに個性的で魅力的なの?」というほどのエネルギッシュな人たちとのつながり。
それこそ何にも代えがたいものだと感じています。

そんな、自然、食、人とのつながりがおりなす下田でしかできない「豊かな暮らし」。
それこそが、わが町のナンバーワン!オンリーワン!ではないでしょうか。
2年間、下田でつながったすべての縁に本当に感謝しています。
これからもどうぞよろしくお願いします!

                                           下田市在住(移住者) T・Sさん

           「もともとあるもの」

たった一つの何かと聞かれて、恐らく男性の皆さんは、目立つものや新しいもの、権威のあるもの、
これまでとは違う華々しい何かを感じさせるものを、何としてでも掲げるのだと思いますが、
何もしがらみも失うものも無い女の私は、そういうものにはあまり興味がなく、
むしろ、古い家や昔ながらの雑貨や、言い伝え、長く使われている通りの名前や、
いつも見ている景色の方が気になります。どう考えても元気のない街に
、無理に見慣れぬ灯りをともしたり、馴染みの無い花木を植えようとするよりも、
ずうっと長いことこの街にあったもの、星の灯りや、祭りの提灯、つわぶきや明日葉や松の林に目を向けたら、
そこにはもともと、そこにしか無いオンリーワンがあふれており、
整備するのにも、最短・最小限の労力で済むことが分かると思います。

抽象的な話になってしまいましたが、どこかよく分からない高みを目指す前に、
まずは足元を見てみること。それが実は、正解なのだと思っています.

この街だけにあるもの、有形無形の、それこそ人間関係やゴシップさえも含めて『カルチャー』
として拾い上げ、風俗として認めることができたら、 今、著しくプライドを損なわれている街も人も店も、
再びゼンマイを巻いて唄い出すという気がするのです。

街の誰もが子供の時から慣れ親しんでいる〈和歌の浦遊歩道〉が、ミシュランガイド二つ星に輝いていることを、
まずは街の人自身が知ることです。

もともとあるオンリーワンを、街の隅々からとことん見つけ出すこと。それができた街から、
ローカルの衰退から一抜けし、街ごとナンバーワンになっていくのではないか。
わが町がそのように元気に変化していくことを、願ってやみません。

そんな事を考えながら、今私は、下田旧町内の空き家を再生し、地元の方と来訪者の交流スペースとして
整備するべく、クラウドファンディングを実施しております。


                                          下田市在住 広告デザイナー S・Jさん